「一九八四年」

ジョージ・オーウェル/新庄哲夫訳

ドットブック版 333KB/テキストファイル 288KB

700円

1984年、世界は三つの超大国に分割されていた。その一つ、オセアニア国では「偉大な兄弟(ビッグ・ブラザー)」に指導される政府が全体主義体制を確立し、思想や言語からセックスにいたるまで、すべてを完全な管理下に置いていた。この非人間的な体制に反発した真理省記録局の役人ウィンストンは、美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、思想警察の厳重な監視をかいくぐり、禁止されていた日記を密かにつけはじめる……個人の自由と人間の尊厳の問題を鋭くえぐる二十世紀文学の最高傑作のひとつ。辛らつなSFであり、最高のホラー小説でもある。

ジョージ・オーウェル(1903〜50)英国の作家。税関吏の息子としてインドに生まれる。イートン校卒業後、警察官としてビルマに赴任、自国の植民地政策に疑問をおぼえ、退職して作家を志した。「パリ・ロンドンどん底生活」「ビルマの日々」で認められ、以後エッセイの書き手としても知られた。のちには社会主義に共感して、スペイン義勇軍に参加(「カタロニア讃歌」)、だが全体主義的傾向に対しては終始反対して「動物農場」「1984年」の諷刺・未来小説を著した。

立ち読みフロア
 四月のある晴れた寒い日で、時計は十三時を打っていた。ウィンストン・スミスはいやな風を避けようと顎を胸もとに埋めながら、足早に《勝利マンションズ》のガラス・ドアからすべりこんでいったが、さほど素早い動作でもなかったので、一陣の砂ぼこりが共に舞い込むのを防げなかった。
 廊下にはキャベツ料理とすり切れた古マットの臭気が漂っていた。突き当たりの壁には、屋内の展示用として大きすぎる色刷りのポスターが画鋲(がびょう)で止めてあった。巨大な顔を描いただけで幅は一メートル以上もあった。四十五、六歳といった顔立ちである。豊かに黒い口髭をたくわえ、いかついうちにも目鼻の整った造りだ。ウィンストンは階段を目差して歩いて行った。エレベーターに乗ろうと思っても無駄だった。いちばん調子のよい時でさえたまにしか動かなかったし、まして目下のところ、昼間は送電が停止されていたからである。この措置は《憎悪週間(ヘイト・ウィーク)》を準備する節約運動の一環であった。ウィンストンの部屋は七階にあった。三十九歳で、しかも右足首の上部に静脈瘤性潰瘍ができている彼は、ゆっくりと階段をのぼりながら、途中で何回もひと休みをした。各階の踊り場では、エレベーターに向かい合う壁から大きな顔のポスターがにらみつけていた。見る者の動きに従って視線も動くような感じを与える例の絵柄だ。「偉大な兄弟(ビッグ・ブラザー)があなたを見守っている」絵の真下には、そんな説明がついていた。
 七階の部屋に入ると、朗々とした声が銑鉄の生産高に関係のある数字のリストを読み上げていた。その声は長方形の金属板から流れていて、曇った姿見のような金属板は右手にある壁面の一部を形造っていた。ウィンストンはスイッチをひねった。声はいくらか小さくなったが、それでも言葉ははっきりと聞きとれた。この装置は(テレスクリーンと呼ばれていたが)、音を低めに調整することができても、完全に切ってしまう方便はなかった。ウィンストンは窓辺に歩み寄った。小作りでいかにも弱々しい。党の制服である青い作業服が、その肉体的な貧弱さを一層きわ立たせていた。色の濃い金髪で、血色がよいのは生まれつきだが、白い膚(はだ)は粗悪な石鹸と切れ味の悪い剃刀(かみそり)の刃と、ちょうど終わったばかりの冬の寒気のために荒れていた。
 マンションの外は、締めきった窓ガラス越しにも寒々と見えた。はるか路上では小さなつむじ風がいくつも渦巻き、ほこりや紙屑を螺旋形に巻き上げていた。太陽が輝いて空は青く澄みきっていたにもかかわらず、万物はすべて色彩を失ったかのようで、ところ嫌わず貼ってあるポスター以外はなにも眼に付かなかった。黒い口髭の男は、あらゆる見通しのきく街角から見下していた。真向かいの家の表にもそれが貼ってあった。《偉大な兄弟があなたを見守っている》と説明がついていて、黒い眼がじいっとウィンストンの顔を覗き込んでいた。路上と同じ高さにもう一枚のポスターが貼ってあった、その片隅は千切れてしまい、発作的に風にはためきながら、そのつどINGSOC(イングソック)という一語しか載っていない文字を見え隠れさせている。はるか遠方では一台のヘリコプターが屋根の間に降下し、しばし金バエのように低く旋回していたかと思うと、ふたたび弧を描いて飛び去って行った。警察のパトロールで、人家の窓口から屋内を盗み見しているのだった。もっとも、警察のパトロールなどは心配する必要がなかった。問題は《思想警察》だけであった。
 ウィンストンの背後では、テレスクリーンの声が依然として銑鉄の生産と第九次三カ年計画の期限内達成をしゃベり続けていた。テレスクリーンは同時に受信し、発信する装置だ。ウィンストンがどんな声を発しても、聞きとれないほどのささやき以外はすべて、このテレスクリーンに捕捉されてしまう。しかも、金属板の視界内に留まっている限り、声も行動もキャッチされるのである。もちろん自分がいつ監視されているのか、それを察知する方便さえなかった。思想警察が個々の電送線に差し込み(プラッグ)を入れて盗聴する回数や方法はただ推測してみるしかなかった。だれも彼も常に監視されているのだと考えてさしつかえなかった。が、ともかく彼らの好きな時に盗聴できるのであった。あらゆる物音は聴きとられ、暗闇の中にいない限り、一挙手一投足まで探索されるという想定のもとに生活しなければならなかった――現にいまはそれが本能に転じた習慣となっている毎日の生活だった。

……冒頭より


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