「三大陸周遊記」

イブン・バットゥータ著/前嶋信次訳

ドットブック版 2.65MB/テキストファイル 229KB

600円

イブン・バットゥータはマルコ・ポーロより五十年ほどおくれて生まれ、これと並び称せられているイスラム世界の大旅行家である。生地もマルコのふるさとヴェネチアからそれほど遠くない、地中海の入口モロッコのタンジャ(タンジール)であった。彼は青春時代から中年に至るまで、実に二十九年を旅にすごし、晩年にその思い出を口述して本書を完成した。
 イブン・バットゥータの見たのはイスラムの世界が中心であった。アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)がイスラム世界を夢幻的に表現したものとすれば、この旅行記は、実世界をありのままに描き、まさにマルコと同時代のイスラム世界の『東方見聞録』となった。

イブン・バットゥータ(1304〜77)モロッコのタンジール生まれの大旅行家。西アジア、インド、中国への最初の大旅行(1325〜49)、ついでアフリカのニジェール川上流地方を東西800キロ、南北2000キロにわたって踏破(1351〜54)、生涯の大半を旅におくり、のちに口述筆記によって「三大陸周遊記」をまとめた。

立ち読みフロア

 わたくしがふるさとのタンジャ(モロッコ)を出たのはヒジュラ(マホメットがメッカからメジナに移ったとき)の後七百二十五年ラジャブの月の二日、木曜日(西暦一三二五年六月十四日)のことで、聖地メッカの巡礼を行った後、メジナなる予言者の御墓(みはか)に詣でるためであった。
 ひとりの同行者もなく、キャラヴァンの群れに加わるのでもなく、ただ聖地を訪れるのだとの希望に胸をふくらせ、固い決意をひめて旅路に出た。心を励まして親しい男や女の人々と別れ、あたかも巣離れの小鳥のごとく、わが家を去ったのである。父母ともに在世中であったが、心を鬼にして暇(いとま)ごいをした。この悲しみは、しかし両親にとっても、わたくしにとっても終生癒(い)えぬ病のもととなった。このときわたくしは二十二歳であった。
 まず着いたのはティリムサーンの町であるが、丁度わたくしの到着の際、チュニス王の使節が二人、この町から出発するところであった。わたくしは三日間滞在し、必要な品々を手に入れたのち、急いで使節一行のあとを慕い、ミリアーナという町で追い着いた。折しも真夏に近づき、二人の使節は病気となったので、そこに十日ほど滞在した。やっと出発したけれども、そのうちの一人は、ミリアーナから四マイルほどの地点で重態となり、三日間病いと闘ったのち、四日目の朝、最後の息をひきとった。一行はその遺骸を埋めるため、あとにひきかえしたので、わたくしはチュニスの隊商の群れに加わって東に進むことにした。
 アッ・ジャザーイル(アルジェ)の町につき、その近郊に数日滞在してチュニス王の使節の一行を待ち、一緒にビジャーヤ(ブージー)の町に向った。そのころ、この町の太守をしていたのはイブン・サイッド・アン・ナースという人であった。たまたまわたくしどもの一行に加わっていたチュニスの商人の一人が死んだが、金貨三千ディーナールを故郷の家族に渡してくれるようにと友人に頼んであった。このことを聞いた太守は、その金を取り上げてしまった。これが旅に出て、地方役人が不法な行いをするのを見た最初であった。
 わたくしも、このブージーの町に着いて間もなく熱病にかかった。チュニス王の使節は、病が癒えるまで、この町に滞在した方がよいと奨めてくれたが、
「もし神がわたくしの死をお定めになったものなら、せめてヒジャーズ(アラビアの西部、メッカのあるところ)に向う途上で息をひきとりたいのです」と答えた。
「それまでの覚悟ならば、乗用の馬匹(ばひつ)や、重い荷物は売り払うがよかろう。わたしが乗りものも、天幕も貸して進ぜるから、身軽になって一緒に来られるがよい。途中で遊牧のアラブ族に襲われるおそれがあるから、途(みち)を急ごうではないか」と使節はいった。メッカへの長い旅の間、神の恩寵(おんちょう)を多く受けたが、これがその初めのものであった。

……冒頭「ナイルの水は甘し」より


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