クリスティ短篇傑作集

「クリスティの六個の脳髄」

アガサ・クリスティ/深町眞理子訳

ドットブック版 213KB/テキストファイル 162KB

600円

ポワロ、ミス・マープル、トミーとタペンス、ハーリー・クィン、パーカー・パイン……ミステリーの女王クリスティが創造した6つの脳髄(探偵役)が、それぞれの待ち味を生かして活躍する軽い短編集。アームチェアでどうぞ。
立ち読みフロア
「去年こちらにご厄介になったときのことだが――」と、ヘンリー・クリザリング卿が言いかけて、やめた。
 この家の女主人、バントリー夫人は、怪訝そうに客を見つめた。
 ロンドン警視庁の前総監、ヘンリー・クリザリング卿は、セント・メアリ・ミードの村にほど近い旧友のバントリー大佐の家に、客として滞在していたのである。
 バントリー夫人はペンを片手に、今晩の晩餐の六人目の客にだれを招待しようかと、ヘンリー卿に相談をもちかけたところだった。
「で? 去年おいでになったときに――なんですの?」バントリー夫人はやんわりとうながした。
「奥さん」と、ヘンリー卿は言った。「あんたはミス・マープルというひとをご存じかな?」
 バントリー夫人は呆気にとられた。およそ予想外の質問だったからだ。
「ミス・マープルを知っているかですって? あのひとを知らないひとなんかいませんわよ。小説に出てくるみたいな典型的な老嬢で、そりゃいいひとですけど、どうにも昔ものって感じでね。そうおっしゃるのは、あのひとをよんでほしいってことですの?」
「驚かれたかな?」
「少々ね、正直なところ。だってまさかあのひとが――でも、そうおっしゃるのには、なにかわけがおありなんでしょうね?」
「わけといっても単純しごくなものなんだが。去年こちらにご厄介になったときに、われわれ仲間で未解決の謎ってやつを論じあう習慣ができて――そう、五、六人もいたかな。めいめいが、自分だけが解答を知っているとっておきの迷宮入り事件を、かわるがわる話しあうわけだ。いわば推理力の訓練というやつで――だれが真相にもっとも近くまで迫るかという興味からね」
「それで?」
「それで、ちょうど昔話にあるように――われわれとしちゃ、当然ミス・マープルのことはみそっかす扱いしておったわけだ。そりゃむろん、丁重に扱いはしたがね――ああいう気のいいお年寄りの感情を害したくはなかったから。ところがどうだ、これがなんとも愉快な結果になっちまって! というのも、毎回あの老婦人に、われわれ男どもがそろってぎゃふんといわされっぱなしなのさ――」
「まあ驚いた、そんなことってあるかしら! だってあのマープルさんってかたは、セント・メアリ・ミードの村からほとんど一歩も出たことがないんですのよ」
「なるほど。しかし、ご本人に言わせると、そのおかげでかえって人間性を観察する無限の機会を与えられたとか――いわば顕微鏡を通して見るようにね」
「それはたしかにうなずける話ですわね」バントリー夫人は認めた。「すくなくとも、人間の卑小な面がわかりますもの。それにしても、この近辺に、そんなぞくぞくするような犯罪者が住んでいるなんて、とても思えませんけどね。とにかくそれじゃあのひとをよんで、お食事のあとで、アーサーの幽霊話を持ちだしてみましょうか。ひょっとしてあのひとがそれをうまく解決してくれれば、願ったりかなったりですわ」
「アーサーが幽霊の存在を信じているとは初耳だな」
「あら、信じているわけじゃありませんわ。だからなおさら頭を悩ましてるんです。それに、その話はあのひとのお友達の身に起こったことですのよ。ジョージ・プリチャードっていって、およそ散文的っていうか、現実的なかた。でも気の毒にジョージにとっては、ちょっとした悲劇的な事件でしてね。この妙な話ははたしてほんとうなのか――それとも――」
「それとも?」
 だがバントリー夫人は答えなかった。しばらく黙りこんでいてから、彼女はやや唐突に言った。
「あのね、わたくし、ジョージが好きですの――みんなそうですけど。まさかあのひとがそんな――でも人間って、ときにより突拍子もないことをしでかすものですし――」
 ヘンリー卿はうなずいた。人間がどんな突拍子もないことをしでかすかは、かつての職業柄、彼のほうがバントリー夫人よりもよく心得ていたからだ。
 というわけで、その夜、バントリー夫人は晩餐の食卓を見まわし(そのさいちょっと身ぶるいしたのは、イギリスの邸宅の食堂の例にもれず、この食堂もひどくひえびえとしていたからだが)、夫の右隣りにしゃんと背筋をのばして坐っている老婦人に目をとめた。その老婦人、ミス・マープルは、黒いレースの手袋をはめ、肩には古めかしいレースの三角形の肩かけをかけ、白髪の頭の上にもレースの飾りをのせていた。年輩の医師、ロイド博士とのあいだに、かなり話がはずんでいるようで、話題は救貧院のことや、村の保健婦のかんばしからざる行状などについてだった。
 バントリー夫人はあらためて首をひねった。ひょっとしてヘンリー卿が手のこんだいたずらをして、自分をかついだのではないかとすら思ったが、そんなことをしても、なにも得るところはなさそうだった。いずれにしろ、彼がミス・マープルについて言ったことがほんとうだとは、とても思えない。

……「青いゼラニウム」より

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***