「813(上・下)」

ルブラン/保篠龍緒訳

(上)ドットブック版 190KB/テキストファイル 142KB
(下)ドットブック版 202KB/テキストファイル 155KB

各400円

ルブランのルパン・シリーズ屈指の長編・名作。「奇巌城」の冒険のあと、ふっつり消息を絶ったルパンが、ケスルバッハというダイヤモンド王の殺害者として急浮上する。ルパンは生きていた! だが、「血を見ることを極度に嫌った」ルパンがそんな行動に訴えるだろうか? 「813」とは何か? 国際外交の極秘事項にからんで何かしら暗躍を始めたルパン、一貫してそれを阻止しようとする謎の強敵。ルパンは謀られて獄中に苦悶する……。ルパン翻訳に一生をかけた保篠龍緒(ほしのたつお)の独特の名調子でおくる。
立ち読みフロア
 ケスルバッハは客間の敷居ぎわに立ちどまると、書記の腕をつかんで、不安らしい声でつぶやいた。
「おい、シャマン、まただれかこの部屋へ入ったぞ」
「そんなはずがありません」
 と書記は反対した。
「あなたは今日、ご自分で、玄関のドアをおあけなすったじゃありませんか。それから、私たちがレストランで朝飯をやっています間、この部屋の鍵はちゃんと、あなたのポケットに入っていたではありませんか」
「シャマン、まただれかこの部屋へ入ったぞ」
 ケスルバッハは前と同じ言葉を繰り返して言って、テーブルの上にあった旅行カバンを指さした。
「さあ、これが証拠だ。このカバンは締めてあったんだ。それが、今みればあいている」
 シャマンはまた反対した。
「ですが、それをお締めになったというのはたしかですか? それに、このカバンには金目にもなんにも、つまらないガラクタや化粧道具しか入っていないんでしょう?」
「そりゃあ、そんなものしか入っちゃいないさ。出かけるとき、用心して、財布は出しておいたんだ。それでなきゃあ……いや、シャマン、たしかにまたしても誰かおれたちが朝飯をやっている間にこの部屋へ忍びこんで来たんだ」
 こういってケスルバッハは、壁のところの電話機をはずした。
「モシモシ……ケスルバッハです……四一五号室の……え……そうです……警視庁へつないでいただきたい……ええ、刑事課です……番号はわかっている……ちょっと待って下さいよ……ええと……八二二、四八番……では、このまま待っているからね……至急に願いますよ」
 一分ばかりして、彼はふたたび受話機に口をあてた。
「モシモシ、八二二、四八番ですか?……警視庁?……刑事課長のルノルマンさんにちょっとお願いしたいことがあるんですが……こちらはケスルバッハです……え、そうです、刑事課長さんはよくご存じです。実はお電話を差しあげるお約束でしたからなんですが……え? いらっしゃらないですか……失礼ですが、あなたは? グーレルさん、刑事の? ではあなたは昨日、私がルノルマンさんとお会いした時いっしょにいらした方ですな……ああ、そうですか……実はね、今日も昨日と同じことがおこったのです。何者かが私の部屋へ忍びこんで来たんです。もしあなたが今からすぐお出で下さいますれば、きっと、いろいろな手がかりを発見されることと存じますが……え? 今から一時間か二時間して……承知しました。ただ四一五号室とおっしゃれば、すぐわかります、ではまたのちほど……どうもありがとうございました」
 彼、ルドルフ・ケスルバッハ、世間からダイヤモンド王とかケープ(タウン)王とか呼ばれ、その財産一億フラン以上と称されている億万長者のルドルフ・ケスルバッハは、パリに来ていらい、ここ一週間ばかり前から、パラス・ホテル第五階の四一五号室を借り切って滞在していた。
 四一五号室は三室にわかれていて、右手の並木町《アブニュ》に面したほうに大きな二室、客間と居間があり、左手の部屋はシャマン書記が使っていて、窓はジュデ街に面している。
 そして、シャマンの部屋のつづきに五室あるが、これはケスルバッハ夫人のために約束してあった。
 夫人は目下モンテカルロにいるのだが、ケスルバッハ氏からの通知がありしだい、パリヘ来ていっしょになることになっていた。
 ルドルフ・ケスルバッハは、しばらくの間心配そうな顔つきをして、部屋の中を歩きまわっていた。背の高い、血色のいい、まだ若い男だ。金縁の眼鏡を透して見えた薄青い眼は夢見るような色をたたえて、いかにも優しい、臆病者らしく見せるが、しかし彼の角ばった顔と、骨ばった顎とは、まったく反対な、勇敢な勢力家らしく見せる。
 彼は窓のほうへ近づいた。窓はしまっていた。よしんばあいていても、どうしてそんなところから忍びこめよう?
 この部屋のバルコニーは右手で切れているばかりでなく、左手、つまりジュデ街に面しているバルコニーとの間は、高い塀で仕切られていた。
 彼は自分の居室に入った。この部屋は隣りの部屋々々とは少しの連絡もなかった。
 彼はさらに書記の部屋に入ってみた。
 ケスルバッハ夫人のために五室に通じている扉は閉まって閂《かんぬき》がしてあった。
「なあ、シャマン。おれにはまるっきり訳がわからない。こうして幾度も幾度も変なことばかりあるんだからなあ……昨日はおれのステッキの置き場所が違っていた……一昨日はたしかにおれの書類に手をふれた奴がある……だが、どうしてそんなことができるんだろう」
「そんなことがあるもんですか」
 と書記のシャマンが叫んだ。
 正直者らしいおだやかな書記の顔には何の心配もなかった。
「要するに、あなたは、たしかに来たと想像していらっしゃるんです。ただそれだけのことなんですよ……何の証拠もないではありませんか……ただ、そんな感じがするというほかには何にもないんです……それにです……この四一五号室は玄関からでなくちゃあ、どこからも入れないんですよ。それに、あなたがここへお着きになったその日に、特別の鍵をお造らせになって、その合鍵はボーイのエドワードが持っているだけです。あの男は信用していらっしゃるでしょう?」
「もちろんさ……もう十年も使っているんだ……そしてエドワードは、おれたちといっしょに朝飯を食っている……とにかく、けさからはおれたちの帰るまで下へは降りさせないで張り番をさせることにしよう……」
 シャマンはフンといって軽く肩をそびやかした。
 たしかにケープ王ケスルバッハは、言いしれぬ恐怖から少し変になったに相違ない。

……冒頭《ケープ王の不安》より

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