「九十三年」

ヴィクトル・ユゴー作/榊原晃三訳

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1000円

(一七)九三年はフランス革命の「恐怖の年」の幕開けであった。ルイ16世の処刑、マラ、ダントン、ロベスピエールらによる権力闘争の加熱。このとき西のヴァンデ地方には王党派による反革命の火の手があがる。共和国軍が討伐のために派遣される。革命と反革命の渦中に、権利、正義、伝統、人間愛とはなにかをきびしく見つめたユゴー晩年の代表作。

ヴィクトル・ユゴー(1802〜85) 1802年、アルプスのふもとのブザンソンに生まれた。詩人として出発したが、戯曲「エルナニ」で劇壇へ登場し、フランス・ロマン派の旗手となった。31年、長編「ノートルダム・ド・パリ」を発表。政治的には王党派からルイ・フィリップ支持へ移り、二月革命以後は共和派へ変わった。51年のナポレオン三世のクーデターに反対して国外追放となり、以後、第二帝政が崩壊する70年までフランスヘは帰らなかった。「レ・ミゼラブル」を含め「静観詩集」「海に働く人々」などの代表作は、この間に書かれた。帰国後、上院議員に選ばれたが、政治的にはあまり活躍せず、作品を書き続け、72年に発表した「九十三年」が最後の作品となった。

立ち読みフロア
 一七九三年五月末のことだった。サンテール将軍にひきいられ、ブルターニュ地方へ派遣されたパリの歩兵一個大隊は、アスティエ地方の、あのおそろしいソードレの森の中で敵をさがし求めていた。
……
 四月二十八日、パリ・コミューヌは、サンテール将軍にひきいられる義勇兵たちに、『敵をいささかも容赦せず、一兵たりとも助命すべからず』という命令をくだした。ところが、パリをあとにした一万二千の義勇兵は、五月末には、すでに八千の兵員を失ったのである。
 ラ・ソードレの森へわけ入った大隊は用心しながら進んだ。左右を見、前後のようすをうかがいながら、ゆっくり前進した。クレベール将軍は、そのようすを、『兵士は背中にも目をひとつ持っている』と評した。長い長い行軍だった。いったい今は何時ごろだろう? 昼であることはわかるのだが、昼の何時だと言いあてるのは、とてもむずかしかった。それはとても深い大自然の森なので、たそがれの薄日のような日光がもれてくるだけで、明るい光が輝くなどということは、まずなかった。
 ラ・ソードレは血なまぐさい悲劇の森だった。一七九二年十一月以来、この森の中では内乱のために数々の罪がおかされてきたのだ。あの残忍なびっこのムースクトンもこの森の不吉なしげみの中から現われたし、頭髪をさか立たせるような殺人もこの森で数知れずおこなわれていた。これほどおそろしい森は、ほかにはぜったいにあるまい。兵士たちは用心しながら森の奥深く進んでいった。あたりには花が咲き乱れ、ゆらめく小枝の壁にかこまれたような兵士たちに、すがすがしい木の葉の涼気がふりそそいでいた。
 あちこちで、日の光が暗い緑の葉かげに穴をあけていた。地面には、グラジオラス、沼地のしょうぶ、野生の水仙、天気のよいことを告げてひらくあのかわいいジェノット、春のサフランなどが咲き乱れている。青虫そっくりの模様から星のような模様まであるいろいろのこけ類が、厚い植物のじゅうたんをしきつめたように広がり、その緑の地に刺繍(ししゅう)をほどこしたように、花ばなが咲きほこっている。兵士たちは黙りこくって、しげみをかきわけながら、一歩一歩ゆっくりと前進していった。兵士たちが持っている銃剣の上で、小鳥たちがさえずっていた。
 まだ戦乱のおこらない平和なころ、ラ・ソードレの森は、『ウィシュ・バ』と呼ばれる夜の鳥猟(ちょうりょう)がよくおこなわれる場所のひとつだった。それが今は、この森も人間がおそわれる場所になっていた。
 森には、かばや、ぶなや、かしの木がたくさんしげっていた。地面は平らで、厚く生えたこけや草が人の足音を消していた。小道などは一本もなく、小道らしいものがあったとしても、ひいらぎや、野生のりんぼくや、しだや、えにしだや、背の高い野いばらの垣根でさえぎられてしまうのだった。十歩さきをいく人のすがたを認めることさえ不可能な深い森だった。
 ときどき、アオサギやクイナが枝のあいだをとびかい、それで、近くに沼地のあることがわかるのだった。
 兵士たちはなおも前進をつづけた。胸は不安にみたされ、さがしている敵に出くわさないかとおそれながら、あてずっぽうに歩いていた。
 ときどき、野営のあとや、たき火をしたあとや、踏みにじられた草や、枝を組みあわせたありあわせの十字架や、血のついた棒切れなどが見つかった。ここでスープが煮られ、あそこでミサがとなえられ、その向こうで負傷兵が傷の手あてを受けた、などということがはっきり読みとれた。しかし、そこからでていった敵はまるきり消えうせてしまっていた。いったい敵はどこにいるんだろう? 多分、もうずっと遠くへ逃げてしまったのだろう。いや、ひょっとすると、手に手にラッパ銃をかまえて、すぐ間近に隠れているかも知れない。森はひっそりとして、人の気配はまったくなかった。大隊はいっそう警戒をきびしくした。あたりの静けさがよけいに兵士たちの神経をたかぶらせるのだ。だれにも会わないから、よけいにだれかに会うのではないかと疑うのだ。なにしろ、彼らは悪名高い森に踏みこんでいるからだった。
 どこかに伏兵がいるかも知れなかった。

……《ラ・ソードレの森》より


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