「中国梵鐘殺人事件」

ファン・フーリック/大室幹雄訳

ドットブック版 443KB/テキストファイル 187KB

600円

ディー判事(兼知事)の今度の任地は江蘇省の蒲陽(プーヤン)。廃屋となった怪しげな道観(道教の御堂)あり、「子授け」で名を売って今をときめく仏寺あり……赴任早々ディー判事の身辺はたちまち半月小路の殺人事件に忙殺される。異色ミステリーの世界的名作第 三弾。

ファン・フーリック(1910〜67)はオランダ生まれの中国研究家。外交官となり、ワシントン、レバノン、マレーシア、日本などに赴任し、専門的な研究書を書くかたわら、ミステリー「ディー判事」シリーズ16作を書きついだ。このシリーズは、英・仏・独・オランダ語・中国語などに訳されて、現在も広く親しまれている異色ミステリーである。日本語版の表紙絵の原画もフーリックの手になる。

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「さて、警部、熱い茶でもどうかな?」
 ホン警部はすばやく立ちあがって、傍らのテーブルから茶瓶をとってきた。茶が注がれるのを待ちながら、ディー判事は言った。
「天はこの蒲陽《プーヤン》県に恵みを垂れたもうた。記録によれば地味は肥え、洪水も旱魃《かんばつ》もなくて、百姓たちは潤っている。帝国を北から南へとよぎる大運河に面しているため、蒲陽《プーヤン》は盛んな通商から大きな利益をあげている。西門の外の良港には官有民有の船がいつも停泊していて旅行者の往来も絶えないから、商人宿は繁昌している。このあたりは運河にも、それに流れこむ河川にも魚が多いので、貧乏人も生計を立てていけるし、かなりの規模の守備隊が駐屯しているから、小商人や飲食店は結構な商いになる。だからこの県の住民は豊かで満ち足りており、税もきちんと納めている。
 最後に、前任のフォン判事は間違いなく熱心かつ有能なお方で、記録文書は最新のまでそろっているし、登記簿も完璧だ」
 ホン警部は顔を上げてこたえた。
「県政は実に申し分ない状態にあるようですね。前の漢源《ハンユアン》のあの調子では、いつも閣下のご健康が気づかわれたものでしたが」
 薄い山羊ひげをひっぱりながら彼は続けた。
「公判記録に目を通しておりますが、この蒲陽《プーヤン》では犯罪はめったに起こらないようです。起こった場合も適切に処理されておりますが、一つだけ決裁待ちになっているのがあります。かなり卑劣な暴行殺人事件ですが、フォン閣下が日ならずして解決しておいでになります。明日関係書類をお調べください、未処理事項がほんの少々残っておりますので」
 ディー判事は眉を上げた。
「警部、そういう未決事項から問題が出てくるのはよくあることだよ。その件について話してくれたまえ!」
 ホン警部は肩をすくめてみせた。
「実にまったくわかりきった事件なのです。小さな商店主、肉屋のシャオですが、その娘が自分の部屋で強姦殺人死体で発見されました。娘にはワンという堕落書生の恋人がいたとわかり、シャオ肉屋はその学生を訴えて出ました。フォン判事が証拠調べをし証言を聴取しまして、ワンが加害者なのは明白なのですが、自白しようとしません。そこでフォン判事がワンを拷問にかけましたが、自白するまえに気絶してしまいました。出発がさし迫っていたため、フォン判事はこの件をそこまでにしていかれたのです。
 加害者が発見され証拠もあがっていて、拷問にかけて尋問すればすむのですから、この件は事実上終わったようなものです」
 ディー判事はしばらく黙りこんで考えこむようにひげをしごいてから言った。
「その件を全部聞きたいものだね、警部」
 ホン警部はがっくりしたようすだった。
「もう真夜中になりましょう、閣下」と彼は口ごもった、「もうお休みになったほうがよろしくはないでしょうか? 明日ゆっくり時間をかけてこの件を再検討することになされば」
 ディー判事はかぶりを振った。
「君が今教えてくれたあらましだけでも、妙に腑におちないところがある。行政関係の文書をさんざ読まされた後では、犯罪の難問題で頭をすっきりさせることも必要だよ。君も茶を飲みたまえ、警部、ゆっくり腰をおちつけて事件の概要を話してほしい」
 こうなったらもうしかたがなかった。ホン警部はあきらめたように自分の机にもどって、数枚の書類を調べてから話しはじめた。
「ちょうど十日前、今月の十七日ですが、市の西南の隅の半月小路で小さな肉屋を開いているシャオ・フーハンという者が、この政庁の昼の公判のとき、涙ながらにとびこんで来ました。証人が三人ついてきました。南区の区長カオ、シャオの店の向かいの仕立屋ロン、それと肉屋同業組合《ギルド》の親方です。
 肉屋のシャオは文学士ワン・シェンジュンに対する訴状を提出しました。このワンというのはやはり肉屋の近所に住む貧乏書生です。シャオはワンが一人娘の純玉《じゅんぎょく》を寝室で絞殺し、金のかんざし一揃いを持ち去ったと申し立てました。肉屋のシャオはワン学土がもう六か月も前から娘と密通していたとのべています。その朝、娘がいつもの時間に仕事に出てこなかったので、はじめて殺人が発覚しました」
「その肉屋のシャオはよっぽどの愚か者か欲の張った悪党に違いない!」とディー判事が口をはさんだ、「自分の屋根の下で若い娘が色事するのを許して、家を売春宿にまでおとすとはな。暴力だの殺人だのが起こっても不思議はない」
 ホン警部は首をふった。
「いいえ、閣下、シャオ肉屋の説明では、この犯罪はまったく別の見方もできるのです!」
 
……第一章より

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