「中国黄金殺人事件」

ファン・フーリック/大室幹雄訳

ドットブック版 471KB/テキストファイル 147KB

600円

舞台は中国の唐時代、政府の命をうけ次々と各地に赴任するディー判事(兼知事)を主人公にしたミステリー。本巻の舞台は山東省北辺に位置する港町の県都平来(ホンライ)、知事が殺害され、下手人もあがらず放置されているこの町に、ディーはみずからの希望で乗り込む。そこに待ち受けていたのは、謎だらけの花嫁失踪事件であり、有力商店主、酔いどれ詩人、奇妙な哲学者、娼婦、浮浪人、小作人などの複雑に絡み合った人間模様だった。異色ミステリーの世界的名作 第一弾。

ファン・フーリック(1910〜67)はオランダ生まれの中国研究家。外交官となり、ワシントン、レバノン、マレーシア、日本などに赴任し、専門的な研究書を書くかたわら、ミステリー「ディー判事」シリーズ16作を書きついだ。このシリーズは、英・仏・独・オランダ語・中国語などに訳されて、現在も広く親しまれている異色ミステリーである。日本語版の表紙絵の原画もフーリックの手になる。

立ち読みフロア
 出会いと別れは、夜と昼のように、
 歓びと哀しみが入れかわる、さだめなきこの世の定め、
 官吏たちは来たり、また去りゆくが、正義と公正は留まる、
 変化することなく、帝国の道は永遠に残る。

 男が三人、歓哀楼の最上階で、黙って酒をすすりながら、帝都の北の城門外で交叉する街道を見おろしていた。世人の記憶に残っているかぎりでは、松におおわれた小さな岡の上に立つ、この古い三階建ての料亭は、首都の官吏たちが国内各地の任務に出発する友人を見送り、そして任期が満了して、友人が首都に帰って来ると、またやって来て歓迎の挨拶をのべるのがならわしの、由緒ある場所であった。その表門にきざまれている上掲の詩があらわしているとおり、楼閣の名はこういう二重のはたらきに由来している。
 空は曇って、春の雨がものさびしく、しとしと降り始めていて、いつやむとも見えなかった。小さな岡の裾(すそ)にある墓地で仕事をしていた二人の男が、松の古木のかげに雨宿りしたきり、身を寄せあってちぢこまっている。
 三人の友達は軽い昼食を終えて、いまは別れの時が迫っていた。ふさわしい言葉をさがすのも空しい、つらい最後の時が来たのである。三人とも年ごろは三十歳前後であった。二人は初級秘書官の錦の帽子を、見送られる三人目の男は県知事の黒い帽子をかぶっていた。
 リャン秘書官がきっぱりした仕草で酒杯を置いて、怒ったように若い知事に言った。
「ほんとうに私はひどくいらいらしているんだ、そんなことは、まったくむだだからさ! 求めさえすれば、君は首都裁判所の初級秘書官の地位につけたのだ。そうすれば、君はここで私たちの友人ホウの同僚になっていたのだし、われわれはこの首都で、そろって楽しい生活をつづけることができた、そうして、君は――」
 ディー知事は、じれったそうに、炭のように黒い、長い顎ひげを引っぱっていたが、鋭くさえぎった。
「そのことはもう何回も話し合った。それで私は――」ぷつりと言葉を切ると、ディー知事はいいわけするような笑みを浮べてつづけた。「君に話したが、犯罪事例の研究なんて、あきあきして、うんざりしている――紙の上の研究にすぎないんだよ」
「だからといって、首都を離れる必要はないさ。ここには興味津々(しんしん)の犯罪事件がないのかね? あのワン・ユアンテーとかいう名の財務省の秘書官、部下の書記を殺して、国庫から金ののべ棒三十本を盗んで失踪した男はどうだ? 私たちの友人の伯父、財務省秘書長官ホウ・クワンが、毎日、裁判所に報告を要求しているのではなかったかね? そうだろう、ホウ?」
 三人目の男は首都裁判所の記章をつけていたが、迷惑そうな表情をしていた。ちょっとためらってから、彼は答えた、「あの悪党の所在については、われわれのところじゃ、まだ何の手がかりもつかんでいない。あれはおもしろい事件だよ、ディー」
「知ってのとおり」とディー知事は気がなさそうに言った。「あの事件は裁判所の長官がじきじき取り組んでいる。あれに関して、これまで君と私が見たのは、型どおりのわずかな記録だけだ、写しだよ! 書類、書類、また書類ってわけだ」
 彼は白鑞(しろめ)の酒注(つ)ぎに手をのばして、また自分の杯を満たした。みんな黙っていた。少しして、リャン秘書官が口をきった。
「少なくとも、君は平来(ポンライ)よりましな県を選ぶことはできたはずだ。霧と雨ばっかりで陰気くさい、海沿いの僻地だぜ。あの地方について、昔から伝わっている気味わるい話を知らないのか? 嵐の夜には、死人が墓場から生きかえって、奇怪な影や姿が海から吹き込む霧の中をふらつくそうだ。おまけに、あそこの森では、人虎(じんこ)がいまだに忍び回っているという話さ。それなのに、殺された男のあとがまに坐るなんて! いくら差し出されたって、正気なら、だれだって、あの地位は拒絶しただろうに、それを君は求めさえした」
 若い知事はほとんど耳をかしていなかった。
「考えてもみろ」知事は熱っぽく言った、「任地に着いたら、すかさず不可解な殺人事件を解決するんだよ。無味乾燥な理論化と埃(ほこり)まみれの書類仕事をおはらいばこにする機会が、もうすぐ持てるのだよ。ついに私は人間を相手にするのだ、わが友よ、現実の、生きている人間たちをさ!」

……第一章より

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