「中国湖水殺人事件」

ファン・フーリック/大室幹雄訳

ドットブック版 475KB/テキストファイル 188KB

600円

漢源《ハンユアン》は小さな古い町で、湖のほとりにある閉鎖的な町であった。湖は、嫖客《ひょうかく》が美しい娼妓相手に歓楽の宴を張り、水上で一夜を過ごすことのできる、浮きただよう密会の家…「画舫《フラワー・ボート》」で知られていた。判事は招待の宴席でひとりの娼妓の見事な舞いをみる、そのすぐあと娼妓は死体となって発見される。娼妓が舞いの前にもらした謎のことばはどういう意味だったのか…ディー判事シリーズ第 二弾。

ファン・フーリック(1910〜67)はオランダ生まれの中国研究家。外交官となり、ワシントン、レバノン、マレーシア、日本などに赴任し、専門的な研究書を書くかたわら、ミステリー「ディー判事」シリーズ16作を書きついだ。このシリーズは、英・仏・独・オランダ語・中国語などに訳されて、現在も広く親しまれている異色ミステリーである。日本語版の表紙絵の原画もフーリックの手になる。

立ち読みフロア
 ふいにディー判事の左で、水晶の簾がちりちりちりと音たててかきのけられた。六人の芸妓が入って来て、栄誉ある賓客に深々と礼をした。
 ハン・ユンハンが二人を選んで、自分と判事の相伴をさせ、ほかの四人は横のテーブルへ行った。ハンがディー判事の隣に立っている娘を有名な舞姫の杏花《きょうか》だと紹介した。娘はつつましやかに目を伏せていたが、たいへん整って美しい、けれども少々冷たい顔だちをしているのを判事は見てとることができた。もう一人の銀蓮花という娘はもっと陽気な気だてに思われる。判事にひき合わされると、彼女はいちはやく頬笑みかけたのである。
 杏花が判事に酌をしたときに、何歳なのかと彼は尋ねた。やわらかな洗練された声で、もうじき十九歳になると杏花は答えた。彼女はディー判事に郷里の州を思い出させる抑揚で話した。愉快な驚きを覚えて、彼はきいた、
「ひょっとすると山西《シャンシー》省の出身ではないのかな?」
 彼女は顔をあげてきまじめにうなずいた。きらきら光る大きな目を見て、判事はほんとうにきわだった美人であることを覚った。と同時に、そういう魅力的な若い娘にはそぐわないような、どこか暗くて鬱屈《うっくつ》した輝きが目にあるとちらっと思った。
「私は太原《タイユアン》のディー家のものだ。郷里はどこかな?」
「手前は平陽《ピンヤン》の出でございます」と娘はものやわらかに答えた。
 ディー判事は自分の杯で娘に酒をすすめた。彼女がなぜそんな不思議な眼差しをしているのかが分かった。太原《タイユアン》の南数里にある県、平陽《ピンヤン》の女たちは昔から呪術や妖術に習熟しているので良く知られている。彼女らは呪文や祈祷で病気をなおすことができ、中には黒呪術を行なうと見なされているものさえいるのである。判事は杏花が、美しい、あきらかに良家の出と分かる娘が、それも山西《シャンシー》省といった遠方の州から、どうして漢源《ハンユアン》みたいな小さな県に来て、こんな不運な職業に堕ちてしまっているのかいぶかしく思った。平陽《ピンヤン》の素晴しい風景や数多い歴史的な記念物について、彼は娘と語り合い始めた。
 その間、ハン・ユンハンは銀蓮花と酒令《しゅれい》の遊びを競っていた。かわるがわる一つの詩から一句を引いて朗誦し、即座にそれにつづけられないほうが、罰として酒杯をひとつあけなければならないのである。ハンがちょいちょい負けているのはあきらかだった。声音《こわね》があやしげになっていた。彼はもう自分の椅子にそっくり返って、大きな顔におだやかな笑みを浮べて仲間を見まわしている。その重くまぶたの垂れた目が、ほとんど閉じそうになっているのに判事は気づいた。うとうとしそうになっているらしい。銀蓮花がテーブルの前に回って来て、ハンが懸命に目を覚ましていようとするのをおもしろそうに見まもった。ふいに彼女はくすくす笑った。
「この人のかわりに熱いお酒を飲んだほうがいいわ」と彼女はテーブル越しに杏花に言った。杏花はハンと判事の間に立っていた。銀蓮花は振り向いて、カン兄弟のテーブルへ軽やかに歩みよった。召使いがちょうどそこへ置いた大きな酒瓶から、彼女はハンの高杯に酒を満たした。
 ディー判事は広口の酒杯を取りあげた。ハンはやすらかにいびきをかいている。判事はむっつりとして思いめぐらした、たとえ一同が酔っぱらっているのだとしても、この宴会はうんざりするだけでなく、何か張りつめたところがある、早目に引きあげなければならない。ちょうど酒をすすっているとき、かたわらで、ふいに杏花がやわらかな、けれどもたいへんはっきりした声で話しかけるのを彼は聞いた。
「私はのちほどお目にかからねばなりません、閣下。危険な陰謀がこの町で企てられているのです」

……「第一章」より

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