「中国迷路殺人事件」

ファン・フーリック/松平いを子訳

ドットブック版 470KB/テキストファイル 203KB

600円

「梵鐘殺人事件」を解決したディー判事の新しい任地は、ウイグル族の跳梁する中央アジアのステップ地帯に近い辺境県の蘭坊(ランファン)であった。蘭坊は地方ボスに牛耳られ、町の綱紀は腐りきっていた。判事は息つくまもなく、謎にみちた退役将軍の密室殺人事件、少女の不可解な失踪事件、おかしな迷路をこしらえた故州総督の謎の遺言書という難題に直面する。おなじみのマーロンが縦横な活躍をみせる。 シリーズ第四作。

ファン・フーリック(1910〜67)はオランダ生まれの中国研究家。外交官となり、ワシントン、レバノン、マレーシア、日本などに赴任し、専門的な研究書を書くかたわら、ミステリー「ディー判事」シリーズ16作を書きついだ。このシリーズは、英・仏・独・オランダ語・中国語などに訳されて、現在も広く親しまれている異色ミステリーである。日本語版の表紙絵の原画もフーリックの手になる。

立ち読みフロア

 四台の馬車はゆるゆると、蘭坊《ランファン》市東方の山越えにかかった。
 先頭の馬車にいる蘭坊新任知事のディー判事は、辛い長旅をできるだけ安楽なものにしようとしていた。旅行用携帯寝具の上にすわり、書物の大きな梱《こり》にもたれていた。忠実な助手のホン老警部は、彼と向かい合って衣類包みに腰をおろしていた。だが道は悪く、こうしていても激しい揺れは防ぎようがないのだった。
 判事も警部も疲労を覚えていた。もう何日もぶっ通しで旅を続けてきたのだ。
 すぐあとに、絹の垂幕をおろした大型ほろ馬車が続いていた。中では判事の三人の妻と子どもたち、女中たちが、枕やふとんを集めたなかで体を丸め、なんとか少しでも眠ろうとつとめていた。
 あと二台の馬車には荷物が積んであった。召使の何人かは、箱や包みのてっぺんに危なっかしく乗っかっているが、あとの連中は汗びっしょりの馬の傍らを徒歩で行くほうがまだいいと思っていた。
 最後の村を出たのが夜明け前、そのあとはずっと、淋しい山中の道ばかり通っている。出会う人といったら、ただ薪を拾っている姿をわずかに見るばかり。車輪の故障で、一行は午後二時間ほど無駄にしたから、そろそろ夕暮れが迫り、山々はますます険悪な様相を帯び始めた。
 巨漢二人が行列の先頭を騎馬で行く。幅広の剣を背負い、鞍頭《くらがしら》には弓をしっかりと結びつけ、えびらの中に入れた矢をかたかたと鳴らしている。これがマー・ロンとチャオ・タイ、ディー判事の忠誠な副官の二人で、一行の武装護衛係をつとめていた。タオ・ガンという、もう一人の副官は、猫背気味の貧相な男で、老執事と並んでしんがりを守っている。
 山の背に登りつめたところで、マー・ロンは手綱をひいて馬を止めた。道は木々に覆われた谷へと下っており、行く手には別の険しい山がそびえ立っている。
 マー・ロンは鞍の上でふり返り、馭者に向かって叫んだ。「このまぬけめが、もうすぐ蘭坊だと言ってから、一時間も経つじゃねえか。まだ山を越えなくちゃならんぞ!」
 町場の人間はいつもせかせかしているというようなことを、ぶつくさこぼしてから、馭者はぶあいそに言った、「気にしなさんな、次の峠に着けば、蘭坊はもう足もとだあな」
「あいつの次の峠ってのは、さっきもきいたぞ」と、マー・ロンはチャオ・タイに目を向けた。「こんなにおそくなって蘭坊到着というのは、どうも間が悪いな。転出する知事は、もう昼からずっと俺たちを待っておられるだろう。そのほか県庁のお偉方や歓迎の宴会はどうなってるかな? 今まで待たされては、こちとら同然の腹ぺこだろう」
「もちろん、のどもからからだ!」とチャオ・タイが受けた。彼は馬をまわして、判事の馬車の側にのりつけた。
「閣下、まだ一つ谷を越さなくてはなりません。だが、そうすればいよいよ蘭坊です」
 ホン警部はため息が出そうなのをこらえて言った、「じつに残念ですなあ、蒲陽《プーヤン》からの転勤命令を、これほど早く受けることになられたのは。着任早々、刑事の大事件が二件も起こるには起こりましたが、概して好ましい県でした」
 判事はちょっと顔をひきゆがめるように笑い、背中を動かして、書籍包みのもたれ具合をよくしようとした。
「どうやら首都で仏教徒派の残党が、広東商人を後押しする連中と結託して、蒲陽《プーヤン》での正式任期満了よりも早く、私を移動させるよう働きかけたらしい。だが、蘭坊《ランファン》のように中央から遠く離れた県の知事を務めるというのは、大いに有益だろう。中部地方の大都市では絶対にお目にかかれないような、興味深い特殊問題が見られるに違いない」
 それはそうだと警部は同意したが、それでもやっぱり憂鬱そうだった。もう六十を越えており、長旅の辛さに疲れ果てていたのである。彼は少年のころからディー判事の生家に仕えていた。ディー判事が官途についてからは信任あつい助言者となり、判事はどの赴任地でも彼を警部に任じて、政庁の巡査たちを統率させた。
 馭者たちは鞭を鳴らした。行列は峠を過ぎて、つづら折りの狭い山道を谷間に向かって下っていった。谷に下ると高い杉木立が道を暗くし、その下には灌木がびっしりと生い茂って、両側から道に迫っていた。
 たいまつをともすよう召使に言おうかと、判事が考えていたとき、前後であわただしい叫び声が上がった。
 黒い布で覆面した男たちの一群が、突然森の中から現れたのだ。二人の男がマー・ロンの右足にとりつき、剣を抜く間もあたえず馬から引き落とした。三番目の男はチャオ・タイの馬の後ろから飛びつき、首に腕をからめて彼を落馬させた。行列の後のほうでは別の二人が、タオ・ガンと執事とに攻撃をかけていた。
 馭者は、飛び降りるなり、森に姿を消した。判事の召使連中は、われ先にと逃げだした。覆面の顔が二つ、ディー判事の馬車の窓からのぞいた。ホン警部は頭に一撃をくらってのびてしまった。判事は、馬車の中へ突き込まれた槍をすれすれのところでかわした。そして、すばやくその柄を両手でつかんだ。敵はそれをもぎとろうとして、外から引っぱった。判事は初めしっかりとおさえていて、いきなりそれを引っぱっている奴の方に向かって押した。相手は後ろざまに倒れた。ディー判事はその手から槍を奪いとるなり、窓からとび出した。槍をぶんぶんと振りまわして、敵二人をよせつけなかった。ホン警部をのした男は棍棒を手にしていた。槍の男は、今は長い剣を抜き放っていた。二人そろって激しく判事を攻めたててくるので、こういう手ごわいのを二人も相手にしたのでは、長くは防ぎきれまいという気がした。
 マー・ロンを馬から引き落とした二人の悪党は、起き上がろうともがくところに切りかかってやっつける算段だった。ところがあいにく、彼らが相手にしたのは、つい二、三年前には野盗で鳴らした手ごわい男だったのだ。判事に会って心を入れかえるまで、マー・ロンとチャオ・タイとは、どちらも「緑林兄弟」の仲間だった。だから道中の戦闘で、マー・ロンの知らない手などほとんどなかった。起き上がろうとする代わりに、体をぐるっとまわして一方の敵の足首をつかむなり、ぐいと引いてバランスをくずさせた。その一方ではもう一人の奴の膝に強烈な蹴りを入れた。この二重の動作で、はね起きる時間をかせいだ。ふらふらしている男の頭に拳で恐るべき一撃を加えて倒した。電光石火のごとくふり向くと、くだけた膝を絶望的におさえている男の顔面を蹴ったから、男の頭はガタンとのけぞって、危く首の骨を折るところだった。
 剣を抜き放ちながら、マー・ロンはチャオ・タイのほうへ突進した。彼は寝たままで、背中にしがみついた男との死闘を続けており、長い匕首を手にした二人が、すきあらばチャオ・タイを刺そうと身構えている。マー・ロンは一人の胸にぐさりと剣を突き通し、抜き取っているひまがないので、二人目のに駆けよると股倉を蹴って二つ折りに沈みこませた。そして賊の匕首を拾い上げ、チャオ・タイと組み打ちしている男の左肩の下に突き通した。

……第一章より

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