「中国鉄釘殺人事件」

ファン・フーリック/大室幹雄訳

ドットブック版 386KB/テキストファイル 138KB

600円

舞台は中国の唐時代、政府の命をうけ次々と各地に赴任するディー判事(兼知事)を主人公にしたミステリー。本巻の舞台は中国北辺の国境に近い商都北州(ペイチョウ)、赴任して4ヶ月ほどは些細な暴力沙汰くらいだったが、ギルド親方の娘の失踪事件が起こり、ついで女の全裸首無し死体が発見され、ディー判事はたちまち捜査に忙殺される。骨董店、綿屋、薬局、紙店、温泉浴場、市場をめぐって、多くの人間が織りなす市井の愛憎ドラマ。 シリーズ第五作。

ファン・フーリック(1910〜67)はオランダ生まれの中国研究家。外交官となり、ワシントン、レバノン、マレーシア、日本などに赴任し、専門的な研究書を書くかたわら、ミステリー「ディー判事」シリーズ16作を書きついだ。このシリーズは、英・仏・独・オランダ語・中国語などに訳されて、現在も広く親しまれている異色ミステリーである。日本語版の表紙絵の原画もフーリックの手になる。

立ち読みフロア
 ディー判事は警部の手渡す熱い茶の大茶碗を感謝してうけとった。それを両手で包み持って手をあたためながら、彼は言った。
「総体としてみれば、文句も言えまい。当地の人々はたくましい種族で、正直でよく働く。ここに来てからの四か月間、行政の日常的業務のほかには暴力事件二、三があったばかりで、それはマー・ロンとチャオ・タイがさっさと片づけた。また、この県に流れこむ脱走者とか、その他北方軍から出るよどみを始末するのは、憲兵隊がいちばん有能だと言わねばなるまい」彼は静かに長いあごひげをしごいた。
「ただし」と彼は続けた、「リャオ嬢の失踪事件があるな、十日前のことだ」
「昨日、父親のリャオ同業組合(ギルド)親方に会ってきました」とタオ・ガンが言った、「リエンファンのことが何かわからないかと、またきかれました」
 ディー判事は茶碗をおき、濃い眉をよせて言った。
「市場は捜索した。地方の軍政府、役所、すべてにあの娘の人相書をまわした。手はつくしたと思う」
 タオ・ガンはうなずいた。
「リャオ・リエンファン嬢の失踪は、われわれが手をかけるまでもないことだと思います」と彼は言った、「娘は秘密の恋人と駆落ちしたのだと、私はいまも信じています。いずれ太った赤ん坊を抱え、恥ずかしそうな夫を連れて帰ってきて、老父に許してくれ、忘れてくれと頼むでしょうよ」
「しかしだ」とホン警部が口をだした、「あの娘は結婚する約束になっていたんだよ」
 タオ・ガンは皮肉っぽく笑っただけだった。
「状況が駆落ちを思わせることは認めよう」とディー判事が言った、「娘は付添の女といっしょに市場へ行き、人混みの中でタタール人の熊の芸当を見ているうち、忽然(こつぜん)といなくなった。人混みの中で若い女を誘拐するのはできないことだから、たしかに自分から失踪したことも考えられる」
 銅鑼(どら)の低い音が遠くで響き渡った。ディー判事は立ちあがった。
「政庁の朝の公判が始まる」と彼は言った、「いずれにせよ、今日もう一度リャオ嬢の件の記録に目を通そう。行方不明者は面倒だ。いっそすっぱりと殺人事件のほうが好みだね」
 ホン警部が手伝って官服をつけている時、判事が言いそえた、「マー・ロンとチャオ・タイはまだ狩りからもどっていないのかな」
 警部は言った。
「夜明け前に出て例の狼を捕えに行き、朝の公判には間に合うように帰ると昨晩は申しておりました」
 ため息をつきながら、ディー判事は暖かい毛皮帽を脱ぎ、黒い絹の判事用正帽にかぶりなおした。戸口に向かおうとしたとき、巡査長がはいってきた。彼はせきこんで言った。
「人々がひどく騒いでおります、閣下! 今朝、南区で女が一人、むごたらしく殺されて発見されました!」
 判事は足を止め、ホン警部のほうに向きなおると厳格に言った。
「警部、ついさっき私が述べた意見はたいへん愚かしかったよ。殺人のことを断じて軽く口にするものではない」
 タオ・ガンが不安げに言った。
「例の娘、リエンファンでないとよいのですが」
 ディー判事は何も言わなかった。執務室から法廷の奥戸口に通じる回廊をよぎりながら、彼は巡査長にたずねた。
「マー・ロンとチャオ・タイを見かけたか」
「つい先程もどりました、閣下」と巡査長は答えた、「けれども、酒屋で烈しいけんかが起こったことを知らせに、市場の管理人が政庁へ駆けこんできたところでして。しきりに手をかしてほしがるものですから、お二人はそのまま馬で管理人といっしょに行きました」
 判事はうなずいた。
 彼は扉を開き、垂れ幕をひきよせて、法廷にはいった。

……第一章より

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