「四季屏風殺人事件」

ファン・フーリック/大室幹雄訳

ドットブック版 390KB/テキストファイル 137KB

600円

シリーズ第6弾。デイー判事は身元を秘した旅の途中、ウェイピンの旅舎に宿をとった。彼の前に現われる当地の県知事、富裕な銀行家、美しい未亡人、不良少年、娼婦、そして殺人事件。朱の漆(うるし)を刻んだ四季屏風の図柄をめぐる謎を軸に、錯綜する推理が展開する……。

ファン・フーリック(1910〜67)はオランダ生まれの中国研究家。外交官となり、ワシントン、レバノン、マレーシア、日本などに赴任し、専門的な研究書を書くかたわら、ミステリー「ディー判事」シリーズ16作を書きついだ。このシリーズは、英・仏・独・オランダ語・中国語などに訳されて、現在も広く親しまれている異色ミステリーである。日本語版の表紙絵の原画もフーリックの手になる。

立ち読みフロア

 彼は意識が朦朧(もうろう)となって、書斎の戸口をはいってすぐの所で立ち止まった。眼がかすんで、机のほうに歩み寄ることもかなわなかった。
 戸口の柱に背をもたせかけて眼を閉じ、ゆっくりと両手を持ち上げて、こめかみを抑えた。割れるような頭の痛みが、ずきずきと重い痛みに変わってきた。
 耳鳴りが止んだ。住まいのある奥院子(なかにわ)のほうから遥かに伝わって来る耳慣れた物音、昼休みの後で再び召使たちの仕事にかかる気配が、ようやく聞き分けられた。もうじき執事が午後の茶を運んで来るだろう。
 やっとのことで、彼は己れを取りもどした。眼がはっきり見えるようになって来たのに気づいてほっとした。
 急いで両手を上げて、しげしげと調べてみた。血のあとはどこにもなかった。
 彼は顔を上げて、どっしりと大きい黒檀(こくたん)の書き物机をみつめた。よく磨かれた表面に、青磁(せいじ)の花瓶にさした花々が映っていた。しおれている、妻に生けなおさせなくてはと、何げなく思った。妻はいつも自分で庭から選んで来るのだ。
 ふいにみぞおちの辺りで、なにかすぽっと抜け落ちたような感じがした。
 彼は狂ったようによろめき進み、なんとか机まで辿(たど)りついた。荒い息をつきながら机の滑らかなへりを伝って回りこみ、肘掛(ひじかけ)椅子に腰をおろした。
 肘掛を握りしめ、新たに襲って来た目まいに耐えた。それが去ると、眼を開いた。
 向いの壁ぎわに、丈(たけ)の高い漆(うるし)の屏風が立っていた。彼は急いで眼をそらした。だが屏風が彼の視線を追って動くような気がした。
 すらりと丈(たけ)高い体に激しい戦(おのの)きが走った。衝動的に、ゆるやかな部屋着の前をかき合わせた。もう駄目か、いよいよ気が狂うのか? 冷たい汗が額(ひたい)に玉となって浮き、いまにも吐くのではないかと思った。
 頭を垂れて、顧問が机の上に置いて行った書類に眼を凝らし、なんとか考えをまとめようとした。
 眼の片隅に、執事が茶盆を捧げてはいって来るのが見えた。馬鹿丁寧な挨拶に応えようと思うのだが、からからに乾いた舌はこわばって動かなかった。
 灰色の長衣(ちょうい)に黒のお碗帽子という地味な身なりの老人がうやうやしくすすめる茶を、知事は震える手で忙しくせかせかと受け取るなり、口に持っていって味わった。もっと飲めば、気分がよくなるだろう。この年寄りはなぜ行ってしまわないのだ? 何を待っているのだ? 腹を立ててなにかひとこと言おうとした時、盆の上の大きな封書に気づいた。
「この書状は」と老執事は言った。「たった今、シェンとおっしゃるお客様がお持ちになりました」
 震える手を伸ばしてそれを取り上げる自信がないままに、彼は書状を見つめた。宛名書きは肉太のお役所風な筆蹟で「※萍(ウェイピン)県知事トン・カン殿 私信」とあり、左下の隅に州の大きな朱印が捺(お)されていた。
 執事が感情の欠けた正確な声音(こわね)で言った。
「私信とございましたので、直接閣下のもとへお持ちすべきかと存じまして」
 知事は封書を取り上げ、機械的に竹のペーパーナイフに手を伸ばした。
 何百といる県知事の一人として、彼は強力な唐帝国の巨大な管理機構の歯車の一個にすぎない。そして、自分の※萍(ウェイピン)県でこそ彼は政府の最高権威者だが、釆府(ピエンフ)にいる州長官の配下に十数人いる県知事の一人にすぎないのだ。執事は当を得ている。州長官からの私信を携えて来た客人を待たせるわけにはいかない。ありがたいことだ、筋道たててものが考えられるぞ!
 彼は封を切った。公用の料紙が一枚はいっており、ただ数行記されているだけだった。
「親書、本状持参人、平来(ポンライ)県知事ディー・レンチエ、州都に於ける協議に出席の後で任地にもどる途中、※萍(ウェイピン)にて一週間のあいだ、厳に身元を秘して滞在することを認めるものである。
  州長官」
 トン知事は、ゆっくりと書状をたたんだ。平来(ポンライ)からの同僚は、この上なく厄介な時に来合わせたものだ。それに、なぜお忍びなんかで来ているのか。面倒が起こっているんだろうか? あの州長官は型破りな手法で有名な人だが、このディーという男を内密の調査によこしたのかもしれない。病気だからと言って追い払おうか? いや、それは家の者たちの疑念をかきたてることになろう、朝のうちはまったくなんともなかったのだから。
 彼は急いで残りの茶をごくごくと飲みほした。
 ずいぶんよくなったようだった。執事に向かって声をかけた時、それがもういつもとほとんど変わらぬ響きを持っていると感じた。
「もう一杯いれてくれ、それから、礼服を出して来なさい」
 老人は主人が茶色地錦(にしき)の長袍(ちょうほう)を着るのを手伝い、黒い紗(しゃ)の、角張った帽子を手渡した。知事は腰に帯を締めた。
「さあ、シェンさんをお連れしなさい。この書斎でお会いしよう」
 執事が出て行くと、トン判事(知事は判事を兼任する)は早速応接用にしつらえられてある黒檀のたっぷりした長椅子に歩み寄った。それは山水画の軸物(じくもの)を掛けた側壁に寄せてすえられていた。
 彼はその左端に座ってみて、そこからは漆の屏風が半分しか見えないことを確かめた。それから、机にもどった。ありがたいことに、もうしっかり歩くこともできた。だが、頭はまだ明晰なままだろうか?
 そこに立ったまま思いにとらわれていると、再び扉が開いて執事がはいって来た。彼は大きな字でシェン・モウと記した赤い名刺を主人に渡した。左下に小さく仲買人と付記してあった。
 漆黒の豊かなあごひげ、長い頬ひげを垂らした、背の高い肩幅の広い男がはいって来て、色のさめた青い長衣の寛(ひろ)い袖の中で手を重ねて拝礼した。かぶり慣れた黒頭巾に、階級を示す徽章はついていなかった。
 トン知事は答礼し、歓迎の言葉を二、三述べた。それから身ぶりですすめて、客人を長椅子の、低い茶卓の左側の席に着かせた。彼自身その反対側に座ると、戸のそばでぐずぐずしている執事に向かってはっきりと、もう行ってよいという合図をした。
 戸が閉まると、ひげ男は油断のない機敏な眼差しで鋭く主人(あるじ)を一瞥(いちべつ)した。彼は快活な、よく響く声で言った。
「トンさん、久しくお会いしたいと思っておりました。まだ首都で官職についていたころから、そこここで当代の大詩人と賞賛されておいでなのを聞きました。そしてまた、言うまでもなくたいへん才能ある行政家であられるということも」
 トン知事は頭を下げた。
「ディーさん、ご親切にすぎましょう。ただ暇なひとときをつぶすために、時おり詩を少々書き散らすにすぎません。私の拙(つたな)い作品が書の鑑定家として知られ、そのうえ犯罪の解明にご熱心なことで名の高い、多忙なご同輩のお眼を汚すことになろうとは、願ってもみませんでしたのに」
 彼は口をつぐんだ。頭のくらくらする感じがもどって来るようで、型通りのお世辞のやりとりを続けているのが辛かった。彼は躊躇(ちゅうちょ)したすえに、また話を始めた。
「州長官閣下は、ここでは厳にあなたのご身分を秘すと申された。あなたのご訪問は、なにかの犯罪調査に関係があるということなのでしょうか? ぶしつけな申しかたですが……」
「とんでもない!」
 ディー判事はすまなそうに笑いながら言った。
「州長官の紹介状が、そんなに簡略に述べられているとは存じませんでした。わけもないご心配をおかけしなければよいのですが。実を申しますと、平来(ポンライ)での職務はたいそう骨が折れました、勿論(もちろん)、私の経験不足のためなのですが。ご存じのように、平来(ポンライ)は県知事として初めての勤務なのです。海岸線の防衛についての協議のため州都に召喚された時は、ちょうど少し休暇をとろうと考えていたところでした。私の県は海を隔てて朝鮮半島と向かい合っており、私どもの所に来ている朝鮮の船舶は、目下かなり御(ぎょ)しにくい状況です。州長官殿は私を朝から夜までつかまえて、のんびりさせてはくださいませんでした。首都から来られた高官もお一人おられましたな。いやあ、ああいう偉い方々の言いなりになっていなければならないというのは、まったく……。協議は四日間続き、これで平来(ポンライ)にもどれば、山のように仕事がたまっているに相違ないのです。そこで私は短期の休暇を願い出て、多くの史跡と風景美で有名な貴県で、旅行者として過ごすことにしました。あなたのご作品のなかで、それらは実にみごとにうたわれています。私が身分を秘めたり、仲買人のシェン・モウを名のったりしているのは、まったくそれだけのことなのですよ」
「分かりました」と主人はうなずいたが、心中は苦々しかった。「休暇だと? どんなもんだか! 長官が手紙の中にそう書いてくれていれば、もう一日二日はこの男に会わずにすませられたのに」
 声に出して彼は続けた。「一時(いっとき)でも、われらの職務につきまとう威儀の仰々しさを抜きにして、ただの一市民として自由に歩き回ることができるというのは、ほんとうに気晴らしになりますな! ですが、お伴の方々はどのように?」
「実を申しますと」ディー判事は答えた。「副官を一人だけ連れて来ております。チャオ・タイと申す腕の立つ男です」
「それはお奨(すす)めできない。その……あなたのお伴としてはいささかお気軽すぎるのでは?」とトンはあやぶむように言った。
「正直なところ、そんなことは考えたこともありません!」判事はおかしそうに笑った。「どこかわれわれが泊れるような、小さくても清潔な宿をご推薦願えますまいか。それから、とくに見逃してはならない名所旧跡もお教えください」
 トンは、一口茶をすすってから、言い出した。
「あくまでもお忍びでというご意向のため、ここで私の賓客としてお迎えする喜びを得ませんことを残念に思います。けれども、たってのお望みですから、飛鶴館(ひかくかん)にお泊りになるのがよろしかろう。たいそう評判がよいし、それにこの政庁から遠くありません。名所のほうは、私の顧問でもあり主任補佐でもあるパン・ユーテエにお引き合わせいたしましょう。彼は生れも育ちもこの土地で、この市のすみずみまで熟知しております。その者のところにご案内させてください。記録室の奥に彼の執務室があります」
 トン知事は立ち上がった。ディー判事が続いて立った時、主人が突然よろめいたのが眼にはいった。彼は長椅子の手もたれに両手でつかまって、体を支えた。
「お加減がよくないのですか?」判事が心配そうにたずねた。
「なんでもありません、ちょっと目まいが……」とトンは微(かす)かに笑ってみせた。「少し疲れているのですよ」
 彼はちょうどそこへはいって来た執事をいらだたしげに見た。執事は主人に向かって深く頭を下げると、声を落として言った。
「お騒がせして申し訳ないことでございます。ですが、小間使がたった今、奥さまがお昼寝のあとまだお出ましにならず、お寝間の戸に鍵がかかっていると知らせて参りました」
「そうだ、さっき言うのを忘れていた」と、トン知事は言った。「昼食の後で奥さまは姉上から急な呼び出しを受け取り、田舎の屋敷に行かれた。召使たちに知らせなさい」
 執事が躊躇するのを見て、トンはいらだってたずねた。「さあ、何を待っているのだ。私には用があるのが分からないのか?」
「まだ申し上げなければならないことが」と、老人は明らかに困りきったようすで口ごもった。「お寝間の前の大花瓶をだれかが壊したのでございます。私は――」
「後にしなさい!」とさえぎると、トン知事はディー判事を戸口に導いた。
 知事の住居と政庁を隔てる庭園を横切って案内して行きながら、トンはいきなり言い出した。
「ディーさん、あなたが当地に滞在しておられる間に、せめて少しでも、あなたとお話する機会を私から奪わずにおいて下さればと、心から希望しております。どうか、いつなりともお訪ねください。私は厄介な問題を抱えており、意見交換のおりを得たく存じます。左のほうへ、どうぞ」
 政庁の広い中央院子(なかにわ)を通り過ぎ、トンは判事の先に立って、向いの建物にある、小さいがきちんとした執務室にはいって行った。
 公式文書や帳簿を積み上げた机に向かっていたやせ形の人物は、上司を見ると飛び上がった。隅(すみ)に引込んで目立つまいとしている下女に、出て行くように合図してから、ひょこひょこ進み出て深く頭を下げた。
 トン知事は慎重に言葉を選んで言った。
「こちらはシェンさん、ええと、仲買人で、州長官殿からの紹介状をお持ちだ。当地に数日滞在して、県内の名所を見て歩きたいと言われる。なんでもお望みのことを教えてさしあげなさい」それからディー判事に向かって、「これで失礼いたします。午後の公判の用意をしなければなりませんので」
 そして礼をして去った。
 パン顧問は判事を机の反対側の大きな椅子に座らせ、ありきたりの質問をした。しかし彼は何か気に懸っていてぴりぴりしているようだった。トン知事もかなりそっけないように見えたし、ディー判事は相当面倒な事件が法廷で懸案になってでもいるのだろうと推測した。
 しかしそれを顧問にたずねると、パンはたちどころに答えた。
「いえ、いえ、法廷ではいつものお決まりの事柄を扱っているだけですよ。幸いここは、どちらかと言うと波風の少ない県です!」
「今しがたお話していた時」とディー判事は言った。「なにか厄介な問題を抱えていらっしゃるようなことを知事さんがほのめかされたので、お聞きしてみたのです――」
 パンは灰色の眉を上げた。
「何も存じませんな!」
 さっきの下女がまたはいって来たが「後で来なさい!」の一言で、あわてて消えた。そのあとパンは判事に向かって悔いるような調子で続けた。
「しょうのない女たちです! 奥様のお部屋に飾ってあった年代物の大花瓶を、誰かが割ったらしいのです。代々伝わるもので、主人がたいそう大切にしていた花瓶です。下女たちの中で誰も自分がしたと言うものがおりませんので、一人一人に問いただして誰がやったか探してくれと執事に頼まれました」
「知事さんには、あなたのほかに補佐はいないのですか?」とディー判事がたずねた。「知事というのは、ふつう三人から四人の副官を幕僚としてお持ちでしょう。そして任地が替わるたびにその人々を連れて行かれる――」
「それは事実です。だが私の主人はそういう慣行に従っていません。ご覧のとおり、あの人はどちらかというと内向的な性格で、いわば少々浮世離れしているといっていいでしょう。私自身は、ここの政庁の常勤職員なのです」彼は眉をひそめて、言葉をついだ。「知事はあの花瓶のことで、ひどく落胆されているに違いない! 今しがたはいって来られた時、気分がお悪いように思いました」
「何か持病がおありなのでしょうか」と判事はたずねた。「私もお顔の色の悪いのが気になりました」
「いや、いや」と顧問が答えた。「体のことでこぼされたことはありません。このところいつもより快活だったくらいです。一か月ほど前に法廷ですべって、くるぶしをくじかれましたが、それもすっかり治りました。夏の暑さで参っておられるのではありませんかな。さて、シェンさん、まず訪ねられるといい所をお教えしますよ。ここには……」
 彼は※萍(ウェイピン)の名所について、長々と説明を始めた。彼は教養ある人物で、本もよく読んでおり、地方史に造詣が深いことが感じられた。心残りだったが、とうとう判事は腰を上げ、連れを政庁の後ろ側にある茶館に待たせて来たので、失礼しなければならないと言った。
「そういうことでしたら、後ろ側の非常口にご案内しましょう」とパンは言った。「政庁の表門から出て、ぐるりと大回りをする手間が省けますよ」
 彼は判事を奥の知事公舎のほうへ連れて行った。湾曲脚だったけれども、彼はさっさと歩いた。窓がなくて暗い長い回廊を抜けて行ったが、それは家屋の回りを走っているらしかった。小さな鉄の扉に行き着いて鍵を開けながら、にこにこして言った。
「この非常口もこの町の名所旧跡の一つと言えます! 七十年以上前に、当地で武装蜂起があった時、秘密の出入口として造られました。ご存じのように、その時の総督はかの有名な――」
 ディー判事は急いでそれをさえぎるように、おおげさに礼を言った。静かな裏通りに歩み出て、パンの示す方角へ向かった。
 チャオ・タイを待たせてあった茶館は次の角(かど)にあった。昼休みの時間が終わったばかりだというのに、店先の戸外の席はもう混んでいた。たいていのテーブルによい身なりの人々が座り、のんびりと茶をすすり西瓜(すいか)の種をかじっていた。
 ディー判事がまっすぐ歩み寄ったテーブルには、茶色の長衣に黒いお碗帽の大柄な男が一人座っていた。彼は本に読みふけっていた。
 判事が向いの椅子を引くと、男は跳び上がった。ディー判事も背が高いが、チャオ・タイはそれよりさらに一寸は高い。首は太く、肩は広くて厚く、拳術の達人らしいしまった腰を持っていた。あごひげのない端正と言える顔が、ぽっと明るくなった。
「思ったより早くおもどりでしたね、知事」
「知事はよせ!」とディー判事が止めた。「忍びだということを忘れてはいけない!」
 彼は椅子の上の衣類包みを床に下ろした。腰を下ろしながら手を叩き、給仕に新しい茶瓶を注文した。
 彼らからさほど離れていない隅のテーブルで、椅子に埋まりこむように座っていた、やせぎすの男が頭を上げた。その顔はすさんで醜く、不快なほどだった。細く長い傷痕(きずあと)があごから右の眼窩(がんか)にかけて走っていて、それが唇を引きゆがめ、絶えずあざ笑っているような表情を作った。
 彼は蜘蛛のような長い手を頬に持っていき、ぴくぴくするのを抑えようとした。次に、骨張った両肘をテーブルにのせ、身を乗り出して、判事と連れとの話を聞きとろうとした。だが彼らの声は、他のテーブルで交わされる話し声で消されてしまった。彼はがっかりして、邪悪な片眼で二人をじろじろと観察することに専念した。
 チャオ・タイがまわりを見回した。醜い男を見るとあわてて眼をそらし、声を落として判事に言った。
「私の後ろの隅のテーブルに一人で座ってる奴が見えますね。なんだか殻から這(は)い出して来たばかりの気持ち悪い虫のようです!」
 ディー判事が眼を向けた。
「そうだな、あまり感じがよくないね。ところで、何を読んでいる?」
「給仕の貸してくれた、※萍(ウェイピン)の案内書です。ここで道草を食うというのは、すばらしい考えですよ!」と言って、彼は開けたままのところをさし出した。「見てください、戦神廟には古代の名将の像が、等身大で十二あるんだそうです、昔の大彫刻師の作品だとかで。それからすてきな温泉があって、そこで――」
「知事の顧問が、さっきみんな話してくれたよ」と、判事は笑いながらさえぎった。「名所見物で忙しくなりそうだな」
 彼は茶を味わったうえで、言葉をついだ。「当地の同輩のトンには、少々失望させられたよ。あんなに有名な詩人なのだから、さぞ楽しい談論風発の人だろうと考えていた。ところがなんだか年寄りくさいぼんやりで、どうもやかまし屋のようだ。病気で、悩みごとがあるらしいのさ」
「思ったとおりじゃないですか」とチャオ・タイが言った。「お話しになったじゃありませんか、夫人は一人しかいないって。ああいう地位の人としては、おかしなことですよ」
「おかしいなんて言ってはいけない」と判事がたしなめた。「トン知事と夫人の関係は夫婦愛の鑑(かがみ)なのだ。結婚して八年たち、まだ子がないのだが、トンは絶対に第二夫人や妾たちをいれようとしない。首都の文壇では永遠の恋人たちという仇名(あだな)を奉っている――まあ、やっかみ半分だと思うが。夫人の銀蓮女史も詩才に長けていることで有名で、共通の関心が二人を強く結びつけているのだ」
「詩はうまいかもしれませんがね」とチャオ・タイは評した。「やっぱりその人の夫はぴちぴちした若い女を二、三人入れて寝間の調度にしたほうがいいと思いますよ。つまりその、精気を得るというやつです」
 ディー判事は聞いていなかった。彼は、隣りのテーブルで続いている会話に気をとられていたのだ。
 二重あごの太った男がしゃべっていた。
「今朝(けさ)の公判で知事は間違いをしでかしたと、私はやっぱり言いたいね。なぜあの人は、コー老人を自殺と登録するのを拒むんだ?」
「つまりさ」と向かい合って座っている狐のような顔つきのやせ男が言った。「死体が見つかってないんだよ! 死体なしでは登録もできない! それがお役所流儀ってやつでしょうが!」
「死体がないのは当然だよ!」と太った男は不機嫌に言った。「彼は川に飛び込んだんだろう? あの川は類のない急流なのだ。相当の勾配を流れ下っていることを忘れちゃいけないよ、市の山手のほうの土地はかなり高いんだから。べつに知事さんに異を唱えるつもりはないがね、このところの知事さんの中では最高のほうだもの。だが、これだけは言いたいんだよ、月々きっちりとお手当をもらっているお役人じゃ、私ら商売人の金繰(かねぐ)りの心配なんぞ分かりっこないのさ。コーの自殺が認定登録されない限り、銀行家は彼の取引をしめくくれない。コー老人はたくさんの業務を未払いのままにしているから、こんなに延引されると家族にとっては大損害になる」
 相手は分別ありげにうなずいてからたずねた。
「コーが自殺したわけについて思いあたることがあるかい、まさか金に困ってじゃあるまい?」
「もちろんさ!」と太った男はすぐに言った。「州で一番大きい彼の絹物商会の業務は、まあ健全だったろうな。だが近頃は体のことを気に病んでいた。それが原因だろうね。茶商のワンの昨年の自殺を覚えてるね、しょっちゅう頭痛を訴えていた」
 ディー判事は興味をなくし、茶をつぎなおした。やはり耳を傾けていたチャオ・タイがささやいた。
「知事、休暇中だということを忘れないでください。それに、ここでぶかぶか漂っている死体は、同僚のトンさんだけのものなんですから」
「そのとおりだね、チャオ・タイ。その案内書に、ここの宝石商の名簿はあるかい。平来(ポンライ)の妻たちへ手土産に、安物をいくつか買わなくてはならない」
「長々とありますよ」とチャオ・タイは答え、急いで本をめくって知事に見せた。判事はうなずいた。
「結構。探すところはいくらでもある」
 彼は立ち上がって、給仕を呼んだ。「さあ行こうか。いい宿の所書(ところがき)をもらった。ここから遠くない」
 醜い男は、彼らが支払いをすませて通りに出るまで待っていた。そしてすばやく立ち上がって、彼らが立ったばかりの席に歩み寄り、さりげなくくだんの案内書を取り上げて、開けたままの頁を一瞥(いちべつ)した。彼の片方の眼が意地悪く光った。
 彼は本をほうり出して、せかせかと露壇(テラス)を下りた。少し先で判事とチャオ・タイが立ち止まり、街頭商人に道をたずねているのが見えた。
 

……第一章より

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