H・G・ウェルズ傑作SF短編集1

「ダヴィドソンの眼の異常な体験」

H・G・ウェルズ/浜野輝訳

ドットブック版 201KB/テキストファイル 154KB

500円

「タイム・マシン」(1895)で一挙にSF世界を創始したウェルズは、次々と趣向をかえて短い期間に多くの名SFを書きついだ。本書には22世紀の恋愛物語「近い将来の物語」をはじめ、95年から98年までの間に発表された表題作、「手術を受けて」、「星」の3つの短編と、ウェルズの思想家としての一端がうかがえる「この惨めな靴」というエッセイを収めてある。
立ち読みフロア
 シドニー・ダヴィドソンの一時的な精神変調は、それ自体とても異常であって、もしウェイドの説明を信じなければならないとすれば、さらにいっそう驚くべきことだ。それは人にこういう夢を見させる――未来における最も風変わりな交際の可能性、世界の向こう側で、差しこまれた五分間を過ごすこと、あるいは、われわれの最も秘密な行動を確実な眼によって見守られていることなどである。この一件はたまたま起きたが、わたくしはダヴィドソンのあの状態の直接の目撃者であった。だから当然、その物語を書くのはわたくしの仕事ということになった。
 わたくしがかれの事件の直接の目撃者であったというのは、わたくしがその光景にぶつかった最初の人間だったという意味である。それはたまたまハーロー・テクニカル・カレッジで起きた。それはハイゲイト・アーチウェイのちょうど向こう側にある。かれはそこの大きいほうの実験室でひとりで仕事をしていた。そのときその事件が発生したのだ。わたくしは小さいほうの部屋にいた。そこには秤(はかり)があって、わたくしは簡単な記録をいくつか書きとめていた。もちろん雷雨はわたくしの仕事を台なしにしてしまった。何回かの大きな雷鳴の直後、わたくしは別の部屋でガラスの砕ける音を聞いた。で、わたくしは書くのを止めた。ぐるっと体をまわして耳をすました。しばらくの間、なにも聞こえなかった。霰が波形のトタン屋根を激しく叩いた。するとまた別の音が聞こえた。ガジャン――たしかに今度はその音であった。なにか重いものが仕事台から落ちたようだ。わたくしは飛び上がり、歩いて大きな実験室に通ずるドアを開けた。
 驚いたことになんとも奇妙な笑い声がした。ダヴィドソンが部屋の真ん中に突っ立ってよろよろしていた。なにかまぶしがっているような表情を浮かべていた。最初、酔っぱらってでもいるのかなと思った。わたくしには気づかない。かれは自分の顔の一ヤードぐらいの前のところを、眼に見えないものに掴みかかるような仕草をしていた。手をゆっくりと、どちらかというと、ためらいがちに差し出し、そして空を掴(つか)んだ。「なにかの再来かな?」かれは顔の前に手を上げて指を広げた。それからかれは、ぎごちなく足を上げはじめた。あたかも足が床にくっついているとでも思っているみたいだった。
「ダヴィドソン」とわたくしは叫んだ。「いったいどうしたんだ?」かれはぐるっとわたくしのほうに向き、まわりを見わたして、わたくしを探した。かれの眼はわたくしの頭の上のほうを、それからわたくしを、わたくしの両側を見た。しかし、わたくしを見ているという感じは全然しなかった。「波だ」とかれは言った。「びっくりするくらい小ぎれいな帆船だ。神かけて誓うぞ、あれはベローズの声だ。ハロー!」かれはかん高い声で突然叫んだ。
 わたくしはかれが最初なにか馬鹿げた振舞いでもしようとしているのかと思った。そのとき、かれの足もとに砕け散っているいちばんいい電位計を見た。「こりゃいったいどうしたんだい、きみ?」と、わたくしは言った。「電位計をこわしてしまったじゃないか!」
「やあ、ベローズ!」とかれは言った。「仲間が置き去りにしたんだ、だれもいなかったらな。なんだ、電位計って。きみは、どっちにいるんだ、ベローズ?」かれは突然よろめきながら、わたくしのほうに向かってきた。「奴ら、バターのようにおれを切り離したんだ」とかれは言った。仕事台のほうに真っすぐ歩いていってぶつかり、たじろいだ。「だれもあんなにへつらいはしないさ!」とかれは言った。そして体を前後に大きく動かしながら立ち止まっていた。
 わたくしは恐くなった。「ダヴィドソン」とわたくしは言った。「どうしたんだよ?」
 かれはまわりを見まわした。「ぼくは、あれがベローズだと断言できる。どうしてきみは、人間の姿になれないんだ?」そのときわたくしは思った、こりゃあ、あいつ、突然盲になったのにちがいないと。机のところをまわって、かれの腕にさわった。わたくしは今までこれほど驚いたような顔をした人は見たことなかった。かれは跳び上がって身を避け、そして、ぐるっとまわってまたやって来たが、すっかり身がまえたような様子になっていた。顔は恐怖ですごくひきつれていた。「これはびっくりした」とかれは叫んだ。「あれはいったいなんだろう?」
「それはおれだ――ベローズだ。ごっちゃにするな、ダヴィドソン」
 そう返事をすると、かれは飛び上がり、じっと見つめた――なんてそれを表現したらいいか?――まるでわたくしの体を見すかすかのようであった。かれはしゃべりはじめた。それもわたくしに向かってではなく、かれ自身にであった。「ここじゃあ、明るい砂浜の太陽のもとじゃ、どこにも隠れる場所がない」かれはまわりを乱暴に見わたした。「こんなところに! ぼくはひとり取り残されてしまったんだ」かれは突然向きを変え、大きな電磁石にもろにぶつかった――そのぶつかり方がとても激しかったので、あとでわかったのであるが、肩と顎の骨に目も当てられない傷をつくってしまった。ぶつかって一歩ほどうしろへ下がった、そして子供がすすり泣きでもするかのように叫び声を上げた。「いったいどうしたんだろう?」ぶつかったところに立ち、恐怖で真っ青になり、激しく身を震わせ、右手で左手を掴んでいた。

……「ダヴィドソンの眼の異常な体験」より

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