「ロレンス短編集/菊の香」

D・H・ロレンス/梅田昌志郎訳

エキスパンドブック 182KB/テキストファイル 155KB

500円

『チャタレー夫人の恋人』で知られるD・H・ロレンスの初期から中期へかけての短編9編。坑夫の家庭の日常を描いた「菊の香」、ケルト的な生命感をほうふつさせる「博労の娘」、闇の世界にすむ男モーリスの自律を描いた「盲目の男」など、ロレンスならではの世界を垣間みることができる。
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 イザベル・パーヴィンは、二つの物音を聞きとろうと耳を澄ましていた。――一つは家の外を走ってくる車輪の響きであり、もう一つは玄関に聞えてくるはずの夫の足音だった。彼女のごく親しい幼時からの男友達――自分の生活にほとんど欠かせないとすら思えるほどのその友達が、暮れかかる十一月の雨もよいのこの夕闇の中を、馬車に乗って到着するはずだった。二輪馬車を駅まで迎えに出してあったのだ。そして夫の方は、今厩舎から戻ってくるはずだった。フランダースで負傷して盲《めく》らになり、額には醜い傷痕が残っていた。
 夫はもう一年もの間家にこもりきっていた。完全に失明していたのだ。しかし彼等夫妻は非常に幸せだった。この農園は家屋敷も含めて夫モーリスのものであり、裏手が農舎もある農場で、ウァーンハム家の連中がこの裏手の家屋に住み、農場の作業をしていた。イザベルは夫と一緒に前の方の屋敷の、見栄えのよい部屋で生活していた。
 彼等夫妻は、夫が負傷して以来、ほとんど完全に世間とは没交渉だった。彼等は素晴しい、口では言えぬほどの親密さで、共に語らい、共に歌い、共に本を読んだ。それから、彼女の方はスコットランド系の新聞に書評を書き出した。彼女の昔から興味をもっていることであり、それを続けたのである。彼の方は農場の仕事に没頭していた。目が見えなくても、彼はウァーンハムとどんなことでも論じ合えたし、また実際にもずいぶんと仕事をすることが出来た。――たしかに、賤《いや》しい仕事ではあったが、彼はそこから満足感を得ていたのだ。乳牛の乳を搾《しぼ》り、それを桶に入れて運び、分離器にかけ、豚や馬の世話もした。生活はこの盲目の男にとって、まだ非常に充実したものであり、不思議な清朗さにつらぬかれていた。この平和は闇の中で直接に事物と接触することからくる、当人以外にはほとんどうかがい知れぬ平和であった。妻とともに彼は全世界を所有していたのだ。豊かで、真実で、そして不可視の世界だった。
 夫妻は新たな幸福、世間から遠く隔てられている幸福を味わった。彼はこの闇の中の歳月で失明を悔みさえしなかった。直接《じか》に手で触れることが出来る喜びがあった。一種の誇らかな歓喜が彼の魂を膨《ふく》らませていたのだ。
 しかし時が過ぎて行くにつれ、この豊かで魅惑的な力も、時には彼等を見棄てることがあるようになった。強い魅力に満ちた幾月かが続いた後では、一種の重荷の感覚がイザベルを打ち負かすことがあったのだ。疲労感、恐るべき倦怠感が、丈高い樅の並木の間をこの静まりかえった家へと近づいて来るのだった。するとイザベルは気が狂うのではないかという気がした。我慢が出来なかったのである。また夫の方も時にひどい抑鬱《よくうつ》状態に発作的に見舞われることがあり、そうなると彼は自分の全存在が荒廃し切ったものに思えるのだった。自分の生活が自分自身にとって責苦となり、自分の存在が妻にとって耐えがたいものとなれば、抑鬱どころかそれは暗黒の惨苦《さんく》だった。こうした暗黒の時期が廻《め》ぐってくると、その恐怖はイザベルの魂の根源にまで降りて行ったのだ。一種の恐慌状態のなかで、彼女はもっと深く自分を夫の中にくるみこもうと努めた。性来の自然な快活さや喜びを、無理にも持ち続けようとするのだが、そのために払わなければならぬ努力は、ほとんど彼女の手にあまるものだった。とてもやって行けないのがわかったのだ。あまりの負担に金切り声で叫び出しそうになり、こんな状態から脱れるためなら、どんなものを手放したっていい、と思うのだった。イザベルは夫を完全に所有したかったのだ。夫を完全に自分のものにすることは、途方もない喜びなのだ。だがあの暗黒の巨大な苦しみの中へ夫が入って行ってしまうと、彼女は自分自身が耐えられず、こんな犠牲を払ってまで生きるくらいなら、いっそこの世から抹殺されてしまいたいと思った。
 眩暈《めまい》をおぼえながら、彼女は出口をさがすために計画を立てた。友人たちを招待して、夫に外部の世界との接触を何とかもう少し持たせようとした。だがこれは無理だった。あの深い喜びと強い苦悩、盲目と孤独と口では言えぬほどの親密さとの、暗黒の偉大な歳月を過ごした後では、夫妻にとって他の連中は、出しゃばりというよりも、浅い薄っぺらなお喋《しゃべ》り屋どもに思われた。浅いお喋りは厚顔無恥に思われた。忍耐を失って苛立《いらだ》ち、彼女は疲れ果てた。だから彼等は、ふたたび孤独の中へと戻ったのだ。その方が好かったのである。
 しかし今は、もう数週間のうちに二番目の子を出産しようとしていた。最初の子は嬰児《えいじ》のうちに死んでいた。それは夫が初めてフランスへ行った時だった。彼女は二番目の子の誕生を、嬉しさと、ほっとした思いとで待っていたのだ。それは自分の救いになるだろうと思えたが、また不安を感じてもいた。彼女は三十歳で、夫は一歳年下なのだった。彼等は二人とも非常にこの子を欲しがっていたのだが、彼女はやはり不安を抑えられなかった。彼女は夫を守っていた。夫は自分にとって恐るべき喜びだったが、また同時に恐るべき重荷でもあった。子供が生まれれば、自分の愛情も世話も子供の方にとられてしまうだろう。するとモーリスのことはどうなる? 彼はどうするだろう? 子供が生まれてきた時、彼の方も安らぎを得、幸せになると思えさえしたら! 彼女は母性の豊かな肉体的な満足感に没頭したかった。だが夫は、彼はどうするだろう? 彼のためにはどうしてやれるだろうか、どうやって自分たち夫婦をだめにする、あのどうしようもない真暗《まっくら》な彼の気分を避けられるだろう?

……「盲目の男」冒頭

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