「メグレ激怒する」

シムノン/長島良三訳

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500円

田舎の別荘で引退暮らしを楽しんでいたメグレは、孫娘の不慮の死に疑念をいだいたアモレル老婦人に調査をたのまれる。大富豪のアモレル家を訪れたメグレは、そこで意外な人物に出会う。老婦人の娘むことして紹介された人物は、メグレの中学時代の同級生、しがない税務署員の息子のマリクだった! マリクは一家の内情をメグレに知られることを異常なまでに恐れていた…
立ち読みフロア
第一章 庭のなかの老婦人

 メグレ夫人は暑い日陰でグリンピースの莢(さや)をむいていた。彼女のエプロンの青と、莢の緑とが日陰のなかに華やかなしみをつくっている。うだるような八月の、一日のうちでもいちばん暑い午後二時だというのに、両手はひっきりなしに動いている。赤ん坊を見守るような目で夫を見詰めていた夫人が、気がかりそうに言った。
「もう起きるんでしょ……」
 しかし、メグレが寝そべっている折りたたみ式デッキチェアは軋(きし)みもしなかった。司法警察局の元警視はごく軽い溜息も漏らさなかった。
 きっとメグレ夫人は、夫の癖を知りつくしているので、汗だらけの顔にかすかなおののきが走るのを目にしたにちがいない。実際、メグレは起きようとしていたのだ。だが、照れ臭さから、そのままじっと寝そべっていたのである。
 定年退職してムン・シュール・ロワールの別荘に引っ込んでから、二度めの夏だった。心地よいデッキチェアにのんびりと寝そべってから十五分とたっていない。パイプからまだ煙が立ちのぼっている。わずか二メートルたらず先の、日陰と日向(ひなた)の境を越えると、蠅(はえ)がぶんぶん飛び回っている炎天下だ。それだけに、彼のまわりの空気はいっそう涼しく感じられた。
 規則正しいリズムで、莢(さや)から出された豆がホウロウ鍋のなかに落ちていく。メグレ夫人は両膝をひろげたエプロンの上にグリンピースをいっぱいに載せている。貯蔵しておくため、今朝、大籠に二杯分つんでおいたのだ。
 メグレがこの家でいちばん好きなところは、いま二人がいるこの場所である。どう名づけたらいいのかわからない場所だが、台所と庭のあいだにある中庭みたいなところだ。家具が少しずつ置かれ、かまどや食器棚まで据え付けられて、食事はほとんどここでできる。スペインの中庭(パチオ)にいくぶん似ている。地面に赤煉瓦が敷かれているので、日陰が特別な色合いを帯びていた。
 メグレはたっぷり五分間、もう少し長かったかもしれないが、じっとしたまま薄目を開けて、焼けつくような日差しのなかで湯気を立てているような野菜畑を眺めていた。それから、照れ臭さをかなぐり捨てると、立ちあがった。
「あなた、これからまた何をはじめるの?」
 夫婦水いらずなので、メグレはいたずらを見つかった子供のようにすぐにふくれてみせた。
「きっと茄子(なす)にまだレプティノタルサがいっぱいついているよ」と、メグレはぶつぶつ言った。「そもそもあれは、おまえのサラダ菜のせいで……」
 このサラダ菜論争は一カ月前から続いていた。茄子の根元に空地があったので、メグレ夫人はある夕方、そこにサラダ菜の苗を植えたのだ。
「これで場所がもうかったわ」
 そのときは、メグレは文句を言わなかった。レプティノタルサが、じゃがいもの葉よりも茄子の葉のほうが好きだとは思わなかったからだ〔レプティノタルサはじゃがいもにつく害虫として知られている〕。サラダ菜のおかげで、いまは砒(ひ)素の害虫駆除液をふりかけることもできない。
 そこでメグレは、日に何度も、縞模様の小さな害虫を取り除いている。いまもまた、大きな麦わら帽子をかぶり、薄緑色の葉のところに行ってかがみ込み、そっと葉を裏返しては虫をつまんだ。左手が虫でいっぱいになると、ふくれ面をして戻って来て、夫人にそれ見たことかと言わんばかりの視線を投げながら火のなかに放り込む。
「おまえがサラダ菜を植えなかったらなあ……」
 じつのところ、メグレは退官してからというもの、ご自慢のデッキチェアに一時間もじっとしていなかったのである。このデッキチェアはデパートから得意満面に持ち帰り、隠居したらこの上で思うぞんぶん昼寝するんだと言い張っていたものなのに。
 メグレは炎天下にいた。素足に木靴をひっかけ、青い木綿のズボンをはいている。ズボンが腰からずり落ちて、まるで象の尻のように見える。こみ入った小さな柄の野良着は前がはだけて、胸毛が見えていた。
 ノッカーの音が聞こえた。人気(ひとけ)のない、薄暗い家のなかで、修道院の鐘のように鳴り響いている。だれかが玄関のドアを叩いているのだ。不意の訪問客のときにはいつもそうなのだが、メグレ夫人はあわててしまい、どうしましょうかというように遠くから夫を眺めた。
 ついで、大きなポケットの代わりをしていたエプロンを持ちあげ、グリンピースをどこにあけたらいいかを思案してから、やっとエプロンの紐(ひも)をほどいた。だらしのない格好でドアを開けに行きたくなかったからだ。
 ノッカーがまた、二度、三度と鳴った。しつこくて、ぷりぷり怒っているみたいだ。メグレには、震えている空気を通して車のエンジンの音がかすかに聞こえたような気がした。彼はそのまま茄子の葉の上にかがみ込み続けていたが、夫人のほうは小さな鏡の前で白髪まじりの髪を整えた。
 メグレ夫人が家の暗がりに見えなくなったかと思うと、庭の塀の小さな戸が開いた。この緑色の小さな戸は小径に面していて、なじみの者しか使用しない。喪服を着た老婦人が戸口に立っていた。ひどく取り澄ましていて、いかめしい様子だが、それでいて妙に滑稽だった。メグレはこの姿を長いあいだ忘れないにちがいない。
 老婦人がじっとしていたのはほんの一瞬にすぎない。すぐに、その高齢に似つかわしくない、矍鑠(かくしゃく)たる足取りで、メグレのほうにつかつかと歩み寄って来た。
「もし、そこの下男さん……ご主人がここにいないなんて言わせないからね……ちゃんと調べがついているんだから」
 老婦人は背が高く、痩せていた。皺(しわ)だらけの顔は、汗で厚化粧が溶けている。何よりも印象的だったのは、異常な光をおびた、まっ黒な両目だ。
「すぐにご主人のところへ行ってこう伝えておくれ。ベルナデット・アモレルが話があって百キロの道のりをやって来ましたって……」

……冒頭より

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