メグレ警視シリーズ16

「メグレとベンチの男」

ジョルジュ・シムノン作/矢野浩三郎訳

ドットブック版 133KB/テキストファイル 107KB

500円

繁華街に近い袋小路のような路地で中年の男が背後からナイフで刺されて死んでいた。残っていた財布から身元はすぐに割れた。近郊の町からパリに通う倉庫係だった。だが死体置き場まで確認にやってきた妻は、遺体のつけている「茶色い靴も赤いネクタイも」覚えがなかった。男は勤め先がとっくに倒産したのに、妻には何も言わず、以前と同じようにして毎日パリへ通勤していたのだ。しかも、男が昼日中、所在なげにベンチに腰掛けていた姿も目撃されていた。いったいこの男は何をして暮らしていたのか。
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 その日、十月十九日はメグレにとって、おぼえやすい日だった。義妹の誕生日だからである。さらに日曜日だということでも、忘れられない日だっただろう。月曜日にはめったに殺人(ころし)はないというのが、オルフェーヴル河岸〔パリ警視庁〕での言い習わしのようになっていたからだ。しかもそれは、その年でも、冬のきざしが感じられてからの、最初の捜査となった。
 日曜日は一日中雨だった。冷たいこぬか雨が降り続き、屋根も舗道も、くろぐろと光っていた。黄色味がかった霧が窓のすきまから入りこんできて、さすがにメグレ夫人もたまらず、
「窓に隙間ふさぎをつけなくちゃね」
 すでに五年以上も前から、毎年秋になると、メグレはこんどの日曜こそ実行するからと、約束しつづけていたのである。
「厚手のオーバーにしたほうがいいですよ」
「どこにある?」
「探してきますわ」
 朝の八時半になったが、どのアパルトマンも電灯をつけたままだった。メグレのオーバーはナフタリンの匂いがした。
 雨はやんでいた。すくなくとも目に見える雨は降っていなかったが、舗道はまだ濡れていて、通行人の足が踏みつけていくにしたがって、泥でぬるぬるしてきた。午後の四時頃、夕闇がおりはじめるすこし前だが、朝とおなじ黄色味がかった霧がパリの町をつつみ、街灯やショーウィンドーの明かりはぼんやりかすんで見えた。
 電話がかかってきたとき、オフィスにはリュカも、ジャンヴィエも、ラポワントもいなかった。サントニが電話に出た。新入りのコルシカ人だが、ここにくるまでに、賭博班と風紀班で十年勤めあげてきている。
「第三区署のヌヴー刑事です、警視(パトロン)。あなたと直(じか)に話したいといってます。緊急らしいですよ」
 メグレは送受器をつかんだ。
「私だ」
「サン・マルタン通りの酒場(ビストロ)から掛けているんですが。ナイフで刺殺された男の死体が発見されました」
「往来でかね?」
「いえ、ちょっと違うんですが。つまり袋小路みたいな場所です」
 ベテラン刑事のヌヴーは、メグレの脳裏にひらめいたことを、たちどころに察知していた。ナイフでの刃傷沙汰は、とりわけ庶民的な繁華街では、べつだん珍しいことではない。酔っぱらいどうしの喧嘩もある。あるいはポン引き仲間とか、スペイン系や北アフリカ系の連中どうしの出入りもしょっちゅうだった。
 ヌヴーはすかさずつけ足した。
「こいつはどうも、ふつうじゃないんです。とにかく来ていただいたほうがいいと思います。大きな宝石店と造花屋のあいだの路地なんですが」
「すぐ行く」
 警視ははじめてサントニを同行させることにした。司法警察の黒塗りの小型車内で、刑事のつけている香水がやけに鼻につく。こいつ、背丈の低いのをカバーして、かかとの高い靴なんぞをはいている。髪はチックでべったり撫でつけ、薬指には、どうせ擬物だろうが大きな黄色のダイヤを光らせていた。
 黒ずんだ街路に通行人たちのシルエットがさらに黒くうかび、靴底が舗道の泥でぴたぴた音をたてる。サン・マルタン通りの歩道には三十人ほどの人だかりができていて、半オーバーを着た警官が二人、野次馬連の前進をはばんでいた。待ちかまえていたヌヴーが、車のドアを開けた。
「医者には、あなたがおいでになるまで待つように言っておきました」
 人通りの多いグラン・ブルヴァール〔マドレーヌ教会からバスチーユ広場までの大通り〕のこのあたりでも、いまが雑踏のピーク時だった。宝石店の上で照明をうけている大時計が五時二十分を指している。造花屋のほうはウィンドーもなく、照明も暗くて、およそ客が入ったことはないのではないかと思いたくなるほど、活気はないし、すっかり埃をかぶっている感じだった。
 この二軒の店のあいだに、うっかりすると見過ごしそうな狭い路地の入口があった。灯火ひとつない、壁と壁のあいだの通路といったところで、この界隈に多く見られる小さな中庭へと通じているらしい。
 ヌヴーがわきへ退いてメグレに道をあけた。路地を三、四メートル入ったあたりの暗がりに、四人の人間が佇立して待っていた。そのうちの二人が懐中電灯を手にしていた。よほど近く寄ってみないと、相手の顔の識別がつかないほどである。
 表道りと較べると、ここはいっそう冷えこみ、じめついていた。絶えずどこからか風が吹きこんでくる。犬が一匹、なんど押しもどしても、しつこく脚のあいだから割りこんできた。
 雨水でしみのできた壁と地面に、俯せになった恰好で、男が倒れていた。片腕をからだの下に折り敷き、もう片方はすっかり色を喪った手をひろげて、通路をふさぐかたちになっている。
「死んでいるんだね?」
 町の医者が首をうなずかせた。
「即死だったようですな」
 そのことばを裏書きするかのように、懐中電灯の光の円が死体の上を這って、そこに突き立っているナイフを奇妙な浮彫り(レリーフ)のようにうかびあがらせた。べつの懐中電灯が、死体のねじむけた横顔を照らす。目を見開き、頬に、倒れたときに石壁でひっかいた傷があった。
「発見者は?」
 制服の警官の一人が、このときを待っていたらしく、前へ進み出た。顔立ちはよくわからないが、まだ若く、かなり興奮している。
「いつもの巡回を行なっていたのです。路地にはかならず目を配るようにしているのですが。暗がりを利用してワイセツ行為に及ぶ連中がいるものですから。地面に人影が倒れているのが見えました。とっさには、泥酔者だろうと思ったのですが」
「そのときは、すでに死んでいたのかね?」
「はい。だと思います。死体にはまだ温か味がありましたが」
「何時だった?」
「四時四十五分でした。呼子を吹いて同僚に知らせてから、ただちに分署に電話連絡しました」
 ヌヴーが口をはさんだ。
「その連絡を受けたのが私でして、すぐにここに急行したんです」
 ここの街警察署はすぐ目と鼻の先の、ノートルダム・ド・ナザレト街にある。
 ヌヴーはつづけた。
「私がうちの署のものに、医者を呼ばせたのです」
「だれも物音を聞いたものはいないのか?」
「そのようですが」
 路地のすこし奥にドアが見えていた。その隙間からかすかに明りがもれている。
「あれは?」
「宝石店の事務所のドアです。めったに使用されていないようですが」
 メグレは警視庁を出る前に、鑑識課に連絡しておいた。いま、その器具や写真機をたずさえた連中が現場に到着した。彼らはいかにも技術者らしく、自分たちの仕事以外のことにはいっさい気をつかわない。よけいな質問はなにひとつせず、ただこの狭苦しい通路でいかに手順よく運ぶかに、ひたすら腐心していた。
「中庭の奥には、なにがあるのかね?」メグレが訊いた。
「なにもありません。壁だけです。メレー街のアパートへ通じる扉が一つだけついていますが、永いあいだ閉めきったままです」
 被害者は路地に十歩ほど入ったところで、背後から刺されたのだ。それは疑う余地がない。犯人は音もたてずに忍び寄ったのだろう、表通りには多勢の人通りがあったにもかかわらず、だれにも気づかれていない。
「被害者のポケットから、財布を引っぱりだしておきました」
 ヌヴーがメグレのほうに差しだした。鑑識課員の一人が、頼まれもしないのに、刑事のもっている懐中電灯よりはるかに強烈な光を差しむけた。
 ごくありふれた財布だった。新しくもなく、とくに使い古されているわけでもなく、品物は良質ではあるが、それだけのことだった。中身は千フラン札三枚と百フランが数枚、それに身分証明書があって、名前はルイ・トゥーレ、住所はジュヴィジー市〔パリの南。エソンヌ県の中心市〕ポプリエ街三十七、職業は倉庫係となっている。ほかには、同名義の有権者カードと、鉛筆のメモがある紙片、それに女の子のかなり古い写真が一葉はいっていた。
「行ってみますか?」
 メグレはうなずいた。まわりで写真班のフラッシュが閃めき、しきりにシャッターを切る音がした。路地の入口の野次馬はいっそう数をまし、警官がそれを抑えるのに苦労している。
 そのあと鑑識班は注意深くナイフを引きぬいて、特殊な箱におさめた。ようやっと死体はあおむけに引っくりかえされる。四十から五十歳のあいだの男の顔があらわれ、そこに浮かんでいる表情は、ただ、茫然という一語につきた。
 自分の身になにが起きたのか、彼にはわからなかったのだ。わからないままに絶命したのだろう。その驚きの表情には、ひどく小児じみた、およそ悲惨とは縁遠いものが感じられ、だれかが暗闇で失笑をもたらしたほどであった。
 服装は端正で、きちんとしていた。地味な色合いの背広に、ベージュの間(あい)もののコートを着ていた。妙なぐあいにねじれた足には明るい茶色の靴をはいていたが、それだけが今時分の装いにしてはどうもちぐはぐな感じだった。

……第一章 茶色の靴」より


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