メグレ短編傑作集2

「メグレ警視のクリスマス」

ジョルジュ・シムノン作/長島良三訳

ドットブック版 106KB/テキストファイル 102KB

500円

ミステリであれ、純文学であれ、外国の作家たちは一生涯に一度はクリスマス・ストーリーを書く。エラリイ・クイーンによれば、クリスマス・ストーリーにはいくつかの約束事がある。「子供を登場させる」ことと、「奇蹟がなければならない」ことだ。『メグレ警視のクリスマス』にも子供が登場し、小さな奇蹟も起こる。
『メグレのパイプ』では、メグレ夫人が十年前の誕生日祝いに贈ってくれたメグレのもっとも好きなパイプが盗まれる。毎日、メグレはオフィスのなかをさがす。帰宅しても、不機嫌で、ほとんど口をきかない。メグレがそのパイプを見つけるのは、捜査中の事件の犯人を逮捕したときであった。シムノン自身がもっとも愛している中編。
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 いつものことながら、それはおなじことだった。メグレはベッドに入りながらこうつぶやいた。
 「明日、私は朝寝坊するよ」
 すると、メグレ夫人はその言葉を真にうけた。まるでここ数年の歳月が彼女に何も教えなかったかのように、こんな風にして言われた言葉に全然注意をはらう必要なんかないのだということを彼女がまるで知らないかのように。メグレ夫人だって朝寝坊することができただろう。朝早く起きる理由なんか彼女には何もなかったのだから。
 しかし、彼女がシーツのなかでこそこそ動く物音をメグレが聞いたときには、まだ夜はすっかり明けてはいなかった。メグレはじっとしていた。寝入っている人間のように、規則正しい、深い寝息を立てるように気をつけた。それはゲームに似ていた。彼が目ざめていないことをたしかめるため動いては止まり、動いては止まりしながら、彼女は動物のような用心深さでベッドの縁(ふち)のほうに進んでいく。彼はこれにけりがつく瞬間……夫人の重さから解放されたベッドのスプリングが、ため息に似た軽い音を立ててはね返る瞬間をじっと待った。
 それから彼女は椅子の着物を手に取り、浴室のドアのハンドルを果てしない時間をかけてそっとまわし、最後に遠くの台所で、いつものように動きまわるのだった。
 メグレはまた眠った。が、深い眠りではなかった。長い時間でもなかった。しかし、その間にはっきりではないが、感動的な夢をみた。あとでその夢がどんなものだったか思い出せなかったが、それが感動的な夢であり、感動として残っていることはたしかだった。
 決してきっちりとは閉まらないカーテンの隙間から、青白くて、まばゆい細い光線が洩れている。彼は仰向けに寝たまま、目を開けて、もうしばらく待った。コーヒーのかおりが漂ってきた。アパルトマンのドアが開いて、また閉じた。メグレ夫人があたたかいクロワッサンを買うため急いで階段を降りて行ったのだ。
 彼は、朝は物を食べず、ブラック・コーヒーを飲むだけだったが、クロワッサンを買いに行くのもならわしであり、夫人の思いつきから出たことだった。日曜日と祭日は、彼は朝遅くまでベッドのなかにいるものとされ、夫人は彼のためにアムロ通りの角にクロワッサンを買いに行くのである。
 メグレは起き上がり、スリッパを履き、部屋着をはおると、カーテンを開けた。彼には自分が間違っていること、夫人がひどく心を痛めるだろうことはわかっていた。夫人をよろこばせるために大きな犠牲をはらわなければならないだろうが、もう寝たくもないのにいつまでもベッドにいるわけにはいかなかった。
 雪は降ってなかった。五十歳を過ぎて、クリスマスの朝に雪がなかったといってがっかりするのは滑稽に思えるだろうか、しかし中年の人々は若い者が考えるほどくそまじめではないのだ。
 空は重々しく、低くたれこめ、屋根にのしかかりそうだった。いやらしい鉛色だ。リシャール・ルノワール大通りにはひとっこ一人見えず、大通りの向こうの正門の上には《保税倉庫、フィス会社》と黒々と書かれている。なぜか、その《倉庫》の〈倉〉の字が物悲しそうな感じに見えた。
 メグレはふたたび夫人が台所を行ったり来たり、食堂へ爪先でそっと入ったり、窓の前に彼が立っているとはつゆ知らず用心しつづける物音を聞いた。ナイト・テーブルの上の時計を見ると、まだ八時十分でしかない。
 昨夜メグレ夫妻は劇場に行った。そのあと、みんなと同じようにレストランで軽い食事を取ろうとしたが、どこの店でもテーブルはクリスマス前夜の夜食のため予約済みだった。そこで二人は腕を組んで、歩いて帰ってきたのだが、家に着いたときは真夜中のほんのちょっと前で、贈り物を交換しあうのにほとんど待たずにすんだ。
 メグレにはいつものようにパイプ。夫人には、彼女が欲しがっていた新しい型のコーヒー沸かし器と、いつものごとくみごとな刺繍のある一ダースのハンカチ。
 彼はその新しいパイプにうわの空でたばこを詰めた。大通りの向こう側の窓にはまだほとんどよろい戸が下りている。起きている人はまだわずかだった。ただ、あちこちで明かりがついている。たぶん子供たちがクリスマス・ツリーや玩具に突進するため早く起きたにちがいない。

……「メグレ警視のクリスマス」より


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