メグレ警視シリーズ9

「メグレの打明け話」

ジョルジュ・シムノン作/長島良三訳

ドットブック版 139KB/テキストファイル 93KB

500円

製薬会社の経営者アドリアン・ジョセの妻が深夜、自宅で刺殺された。遊び好きの妻には多くの男友達が、夫には愛人アネットがいた。容疑者ジョセは本当に殺(や)ったのだろうか? 長い警察官生活のうちでメグレがどうしても忘れられない事件。
立ち読みフロア
それは、オルフェーヴル河岸のメグレのオフィスでだった。その日は火曜日で、午後の三時頃。やはり春で、四月の終わりか、五月の初めである。その朝、オルフェーヴル河岸に着いたとき、警視は事件のことを知らなかった。彼が事件のことを知らされたのは十時頃になってからにすぎず、最初はオートゥイユ警察署の署長から、ついでコメリオ判事からだった。
 この日はかなり混乱していた。オートゥイユ警察署は明け方に司法警察局に知らせたと言うが、なにかの手違いでその通報は宛先に届いていなかったらしい。
 メグレが、オートゥイユ教会から二、三百メートルのところにあるロペール通りで車から降りたときは十一時近かった。だから、いちばん最後になってしまった。新聞記者やカメラマンたちもいて、そのまわりを野次馬が取りかこみ、警官が整理にあたっていた。検事局からもすでに現場にきていた。五分後に、鑑識課の連中がやってきた。
 十二時十分に、警視は自室にアドリアン・ジョセを入れさせた。ジョセは四十歳のハンサムな男で、肥ってはいなかった。ひげを剃ってなく、いくぶん皺(しわ)になった服をきていたが、それでも優雅な感じがあった。
 「さあ、入りたまえ……坐って……」
 メグレは刑事部屋のドアを開けて、若いラポワントを呼んだ。
 「ノートと鉛筆を持って来てくれ……」
 オフィスは陽を浴びていた。開いた窓からパリの物音が聞こえてくる。ラポワントは尋問を速記しなければならないことがわかっていたので、テーブルの隅に坐った。メグレはパイプにたばこを詰め、船列がセーヌ河をさかのぼって行くのをしばらくながめていた。小舟の男がこの船列から離れた。
 「ジョセさん、私はあなたの答えを記録しなければならない。そのことをお断わりしておく……あなたはひどく疲れていませんか?」
 ジョセはちょっと悲しげな微笑をうかべて、首を横に振った。彼は昨夜眠っていなかった。オートゥイユ署はすでに彼を長いあいだ尋問していたのだ。
 メグレはその報告書を読みたくなかった。まず自分自身の手で概念をつかみたかったからである。
 「例のごとく身許の確認からはじめよう……苗字、名前、年齢、職業……」
 「アドリアン・ジョセ、四十歳、エロー県セートの生まれ……」
 そのことを知らなければ、彼のかすかな南仏訛(なま)りを見すごしてしまう。
 「両親は?」
 「父は小学校の教員。十年前に死にました」
 「お母さんはご存命ですか?」
 「ええ。セートの小さな家に今でも住んでおります」
 「あなたはパリで勉強したのですか?」
 「モンペリエです」
 「あなたは薬剤師ですね?」
 「薬剤師の免状を取り、そのあと一年医学の勉強をしました。でも、医学の勉強はつづけませんでした」
 「なぜ?」
 ジョセはためらった。それが正直さによるものであることは、メグレにはわかっていた。少くともこれまで、ジョセは正確に、つねに真実を語ろうと努力していた。

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