メグレ警視シリーズ7

「メグレと老外交官の死」

ジョルジュ・シムノン作/長島良三訳

ドットブック版 93KB/テキストファイル 90KB

500円

七十八歳の元外交官サン=ティレール伯爵が自宅書斎で数発の銃弾を浴びて即死した。至近距離からの一発が脳頭蓋を吹っ飛ばす致命傷であった。外交上の政治的事件か、恋愛問題か、遺産相続問題か? ミステリーのタブーに挑戦したシムノンの力作は意外な結末をとげる。
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パイプをぷかぷか吹かしながらメグレは、デスクの上に山のようになっている書類を片づけ、重要ではない事件は整理した。そのとき、電話が鳴った。
 「ちょっとこちらに来られないか、メグレ?」と、局長が訊いた。
 警視はゆっくりと局長のオフィスに行くと、窓のそばに立ったままでいた。
 「私はいま外務省から奇妙な電話を受けた。電話は外務大臣ご自身からではなく、彼の官房長からだった。官房長は大至急、《責任ある地位の》人間を寄こしてくれと言っておる。これは官房長が使った言葉そのままだ。《刑事では?》と、私はたずねた。《要職にある者がいいのです。犯罪事件かもしれませんから》」
 局長とメグレは顔を見合わせた。彼らの目にはいたずらっぽい光がわずかだが宿っている。というのは、二人ともどこの省も好きではなかったし、まして外務省のような固苦しいところはなおさらだったからだ。
 「私は、きみ自身に行ってもらおうと思っているんだが……」
 「そのほうがいいでしょう……」
 局長はデスクの上の紙をつかむと、メグレに差し出した。
 「クロミエールという男に会いに行きたまえ。きみを待っている」
 「官房長ですか?」
 「いや。クロミエールというのは、こんどの件にたずさわっている人物だ」
 「刑事を連れて行ってもいいでしょうか?」
 「私にはいま言ったこと以外のことはわからない。ああいうところの人間は秘密主義が好きなんじゃないかな」
 しかし、メグレはジャンヴィエを連れて行くことにし、二人でタクシーに乗った。外務省では、彼らは正面の階段に案内されず、中庭の奥にある狭い、見栄(みば)えのしない階段のほうに連れて行かれた。舞台裏か、勝手口にまわされたようなものだった。彼らは廊下をあちこちとしばらくさまよった後で、やっと待合室を見つけた。金モールをつけた守衛はメグレの名前などにおかまいなく、カードに記入させた。
 やっと彼らは、すきのない服装をした若い官吏が、身動きしないで黙って坐っているオフィスに通された。若い官吏の前には、おなじように身動きしない老女がいる。この二人はずっと前から、たぶん外務省から司法警察局へ電話を入れてから、こうやって待っていたようだった。
 「メグレ警視?」
 メグレはジャンヴィエを紹介した。若い男はちらっと見やっただけだった。
 「どんな問題かわかりませんので、念のために部下の刑事を一人連れてきました」
 「お坐りください」
 このクロミエールという男は、何はさておいてももったいぶった様子をしようと努めていた。彼の話し方には非常に《外務省的》な横柄さがあった。
 「外務省からじかに司法警察に電話したのは……」
 彼はこの《外務省》という言葉を、まるで神聖きわまりないところであるかのように発音した。「……われわれが特殊な立場に立たされているからです、警視さん……」
 クロミエールを観察しながら、メグレは老女のほうも観察していた。彼女は片方の耳が聞こえないにちがいない。もっとよく聞こうと首を伸ばし、頭をかしげ、人の唇の動きに注意を凝(こ)らしているからだ。
 「このマドモワゼルは……」
 クロミエールはデスクの上のカードに目をやった。
 「このマドモワゼル・ラリューは、われわれのもっともすぐれた元大使の一人サン=ティレール伯爵の召使い、というより家政婦です。サン=ティレール伯爵のことはもちろん噂(うわさ)でお聞きのことと思いますが……」
 メグレは新聞などで読んだことがあるので、この名前を憶えていた。しかし、それははるか遠いことのように思えた。
 「十二年ほど前に退職してから、サン=ティレール伯爵はパリの、サン=ドミニック通りのアパルトマンで暮していました。今朝、マドモワゼル・ラリューは外務省に八時半にやってきて、責任のある官吏が来るまでしばらく待たなければならなかったのです」
 メグレは朝八時半の人気のないオフィスと、待合室で身動きもせず、ドアにじっと瞳を凝らしている老女とを想像した。
 「マドモワゼル・ラリューは四十年以上前からサン=ティレール伯爵に仕えているのです」
 「四十六年でございます」と、彼女は訂正した。
 「よろしい、四十六年間。彼女は伯爵のいろいろな任地について行き、家事を見ました。ここ十二年間は、彼女はサン=ドミニック通りのアパルトマンで大使と二人きりの暮しです。今朝、朝食を持って伯爵の寝室へ行くと寝室は空でした。伯爵は書斎で死んでいるのが発見されました」
 老女は鋭い、さぐるような疑い深い目で、男たちをつぎつぎに見た。
 「彼女によれば、サン=ティレール伯爵は一発ないし数発の弾丸で殺されたらしい」
 「彼女は警察には知らせなかったのですか?」
 ブロンドの若い男は思い上った様子をした。
 「あなたの驚きはわかります。しかし、マドモワゼル・ラリューが生涯の大半を外交官の世界で暮してきたことを忘れてはいけません。伯爵はもはや現役ではないとしても、彼女は外交官の職業にある秘密厳守の規則のことを考えたにちがいありません……」
 メグレはジャンヴィエにちらっと目をやった。
 「医者を呼ぶことも考えなかったのですか?」
 「死は疑いのないように思えたのです」
 「今、サン=ドミニック通りにはだれがいますか?」
 「だれもいません。マドモワゼル・ラリューはここにまっすぐ来たのです。あらゆる誤解と、時間の無駄を避けるために、私はここで、サン=ティレール伯爵は政府のいかなる秘密文書も所持していなかったし、伯爵の死に政治的な原因をさがしても無駄だということを断言しておきます。それでもなお、細心の用心が必要です。事が著名な人間のことになると、とくにその人間が外交官だと、新聞は事件をあおりたて、途方もない推測を書きたてる傾向がある……」
 若い男は立ち上った。
 「あなたがお望みになるなら、これからサン=ドミニック通りへ行きましょう」
 「あなたも?」と、メグレは無邪気な声でたずねた。
 「案ずることはありません。私はあなたの捜査に口を出すつもりはありませんから。私があなたと一緒に行くのは、現場に、外務省を当惑させるようなものが何もないか、この目でたしかめるためです」
 老女も立ち上った。四人は階段を降りた。
 「タクシーに乗ったほうがいい、外務省のリムジンでは目立ちすぎる……」

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