「サン・フォリアン寺院の首吊り人」

シムノン/水谷準訳

ドットブック版 137KB/テキストファイル 101KB

400円

ベルギーに出張中のメグレはぶらりと入ったブリュッセルのカフェで、いかにも失業中という男が3万フランもの大金をポケットから取り出し、くすんだ紙に包むのを見る。男はそれをパリ宛てに書籍小包で送った。メグレは気まぐれ心も動き、男が買ったのと同じ旅行かばんを買って、跡を追う。そして、すきをみてかばんを取り替える。だが、かばんがなくなったと知った男は、やにわにピストルを取り出してホテルの部屋で自殺した! 男のかばんには、一着の古着がはいっていただけだった。
立ち読みフロア
 誰も気がつかない。こんな小さい停車場の待合室で、ドラマめいたことが演じられているなんて、誰だって思うわけがない。そこには、コーヒーやビールやレモン水などの飲物の匂いが立ち迷う中に、わずか六人の旅客が、つくねんと汽車を待っているだけである。
 午後五時、そろそろ夜である。灯がともされたが、窓をとおして暮れなずむプラットフォームには、ドイツ、オランダ両国の税関吏や駅員たちがぶらついているのが、まだ見分けられる。
 このノイシャンツ駅はオランダの北端に設けられてあって、ドイツ国境に接しているのだ。停車場もちっぽけだが、ノイシャンツも小さな町で、幹線は一つも通らない。列車は朝夕の二回だけ、それも高賃銀に釣られてオランダ工場に働きに来るドイツの工員たちのためといっていい。
 毎度型どおりに繰り返される。ドイツの列車がフォームの一方の端に着くと、一方の端でオランダのが引きつぐ。
 オレンジ色の帽子の連中と、プロシャ風の緑や青の制服たちが入りまじって、税関の仕事で一時賑わう。
 全部で二十人ほどもない客数のことで、それに税関吏をチャンづけで呼ぶ仲であり、手続きはすぐすんでしまう。
 ぞろぞろつながって食堂に行く。国境いの駅食堂も、型どおりである。値段表はセントとペンニヒの両方で書いてある。ガラス箱の中にオランダ・チョコレートとドイツ・タバコが並べられてあり、お酒も杜松子酒《シュニエーブル》と火酒《シュナップ》といった具合だ。
 その夕方はうっとうしい天気だった。カウンターでは女が居眠りをやっている。コーヒー沸しから蒸気が吹きだしていた。台所の戸が開いていて、子供が弄《いじ》っているラジオがピーピーいうのが聞えて来る。
 いかにも家庭的だが、それでも冒険と怪奇のきっかけになる下地がないでもなかった。
 いって見れば、ドイツ、オランダ両国の制服の相違だとか、ドイツ側には冬季スポーツの広告があるのに、一方ではユトレヒト貿易市のポスターがあるといった混乱である。
 待合室の片隅に年の頃三十代の男がいる。糸の目が見えるくらいの上衣、やつれた顔、無精髭《ぶしょうひげ》を生やして、何とも名状しがたい灰色になったソフト帽をかぶっている。あんな色になるのには、ヨーロッパじゅうを歩き廻らねばなるまい。
 彼はオランダの汽車で着いたのである。ブレーメン行きの切符を見せたが、駅員は彼が迂廻線に乗ったので、急行はないのだとドイツ語で説明してやった。
 男は言葉の通じない仕草をして見せてから、フランス語でコーヒーを注文した。みんな物珍しそうに彼を見つめた。
 凹んだ眼窩《がんか》の底で、眼が熱っぽい。下唇にへばりつけるようにして巻タバコを吸う。それがいかにも倦《う》みきって蔑《さげす》み果てたように見える。
 足もとに、どこの売店にでもあるファイバー製の小さい旅行鞄がある。まだ新しい。
 コーヒーが来ると、ポケットからバラ銭をつかみだして手を拡げる。フランス、ベルギー、オランダ、まぜこぜである。
 給仕女はその中から代金をつまみ上げる。
 そのテーブルの隣に、もう一人、人目につかぬ旅客がいる。大柄で太っていて、肩巾が広い。ビロード襟の黒い厚手の外套、軽便ネクタイといういでたちである。
 若い男は屈んだまま、列車に乗りおくれまいとしてか、絶えずガラス戸から駅員の動きを見守っている。
 それを隣りにいて、パイプをぷかりぷかりやりながら、無慈悲とも見える冷然たる様子で眺めているわけだ。
 そわそわしていた男が、洗面所へ行こうと二分ほど座を立った。そのとき屈《かが》みもせずにちょいと足を動かして、隣りの客が男の旅行鞄を引き寄せ、代りに見分けのつかぬほど同じ自分のと置き換えた。
 それから半時間ほどして、列車は出た。二人とも同じ三等車に相乗りしたが、相変らず言葉一つかわそうともしない。
 レールでみんな降りたが、この二人だけは先を続ける。
 ブレーメン駅のあの途方もない玻璃《はり》天井の下へ滑りこんだのが十時、アーク燈が歩く人たちの顔をしらじらと浮きだしていた。

……第一章 メグレ警部の犯罪

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