メグレ警視シリーズ3

「メグレと首なし死体」

ジョルジュ・シムノン作/長島良三訳

ドットブック版 161KB/テキストファイル 100KB

500円

サン・マルタン運河からあがった男のばらばら死体。首だけが発見できない死体の身元確認に奔走するメグレの前に、パリの片隅でひっそりと暮らす居酒屋夫婦の意外な過去が浮かびあがる。メグレもののなかでも一、二を争う傑作!
立ち読みフロア
 空が白みはじめたばかりだった。大伝馬船のハッチから、ノオ兄弟の兄のジュールの頭が、ついで肩が、最後にひょろ長いからだがあらわれた。まだ櫛(くし)の入れてない灰色の髪をかきながら、彼は水門を、左手のジェマープ河岸(がし)を、そして右手のヴァルミィ河岸をながめた。夜明けのすがすがしい空気のなかでたばこを巻き、まだそれを喫(す)い終らないうちに、レコレ街の角の小さなバーに明りがともった。
 薄明りのため、店先の黄色はいつもよりずっとけばけばしく見えた。主人のポポールがよろい戸を開けるため歩道に出てきた。ポポールもまだ髪をとかしてなかったし、シャツの襟(えり)ははだけたままだった。
 二本目のたばこを巻きながら、ジュールはタラップを渡り、河岸(かし)を横切った。こんどは弟のロベールがハッチからあらわれた。兄とほぼおなじぐらいの背丈で、やせこけている。明るいバーのなかに、彼はカウンターに肱(ひじ)をついているジュールと、コーヒーのなかにブランデーを少量入れている主人の姿とを見ることができた。
 ロベールは自分の順番を待っているみたいだった。彼は兄とおなじ手つきでたばこを巻いた。兄がバーから出ると、弟は大伝馬船のタラップを渡った。二人は通りの真中で擦(す)れちがった。
 「おれがエンジンを動かしておく」と、ジュールがいった。
 こうした簡単な言葉いがい口をきかない日は年じゅうあった。彼らの船は《二人の兄弟号》といった。兄弟は双生児(ふたご)の姉妹と結婚し、この二家族は船上で暮していた。
ロベールはポポールのバーで兄とおなじ場所に立った。バーにはブランデー入りのコーヒーの香りがしていた。
 「いい日だね」と、肥った小男のポポールがいった。
 ロべールは黙って窓から、ばら色に染っている空をながめただけだった。この風景のなかで形と色とを取りはじめているのは、まだ屋根の上の煙突の土管(どかん)だけだった。屋根のスレートや瓦には、舗道の上同様、冷たい夜の名ごりである霜が、うっすらと積っている。が、それもいまでは溶けはじめていた。

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