メグレ短編集1

「メグレ夫人の恋人」

ジョルジュ・シムノン作/長島良三訳

ドットブック版 161KB/テキストファイル 117KB

500円

メグレ物のなかでも、ずばぬけておもしろい中長編集『メグレ、最新の事件簿』から秀作9編を選んでおくる。「メグレ夫人の恋人」では、メグレ夫人が事件の発覚を予測し、いざ事件が起こると家庭から飛び出してメグレ顔負けの名探偵ぶりを発揮する。「殺し屋スタン」は数あるメグレ物中編のなかでも、おもしろさが光る作品。ポーランド人の強盗団らしい一味が泊っているホテルを張込んだジャンヴィエとリュカとメグレ。そこヘ、捜査の手助けをしたいというポーランド人の士官があらわれ、緊張をたかめていく。強盗団の首領《殺し屋スタン》とは何者なのか? 最後には意外な結末が待っている。
立ち読みフロア
 メグレの郵便受けに、どこの食料品屋でも売っている安物の便箋(びんせん)を使い、子供の手跡のような下手くそな文字で、綴りも間違いだらけの手紙が舞い込んだ。
 《スタンはおとなしく捕まらない。気をつけろよ。おまえが捕える前に、スタンはまわりの人間をだれかれかまわず射ち殺すぞ。》
 もちろん、殺し屋スタンが何者であるかはまだわからない。しかし、こうして脅迫状がわざわざ送られてくるところをみると、ビラーグ通りの情報はかなり確かなものにちがいない。
 しかも、この手紙はいたずらではなかった。メグレはそれを確信している。この手紙は、メグレの表現によれば、本物の《匂いがしていた》。この手紙には暗黒街の卑劣な後口(あとくち)のようなものがあった。
 「注意しろよ!」局長は命じた。「急いで逮捕してはいけない。四年間に十六人もの人間を殺したやつだ、いざ自分が捕まるとなれば、拳銃をあたりかまわずぶっぱなすだろう……」
 ジャンヴィエがホテル《ボー・セジュール》に面するカフェのボーイになり、リュカがよぼよぼの老人に扮装して、窓辺で一日じゅう日なたぼっこをしているのは、このような理由(わけ)なのだ。
 追いつめられた男が、いますぐにでも拳銃を乱射するかもしれないということなどまるで知らぬげに、街はますます騒々しい活気をおびていった……。
 「メグレ警視、わたしがここにきたのは、あなたにいいたいことが……」
 そして、ミハウ・オゼップが現われたのだ。
 
 メグレがこの男と最初に会ったのは、四日前だった。彼は司法警察局にやってきて、個人的な用件で警視に会いたいと言い張った。警視は二時間以上待たせたが、彼は怒らなかった。
 オフィスに足を踏み入れるや、彼は踵(かかと)をかちっと合わせ、深く頭を下げると、手を差し出した。
 「ミハウ・オゼップ、以前はポーランドの士官でしたが、現在はパリで体育の教師をしております……」
 「すわりたまえ、話をうかがいましょう」
 ポーランド人は訛(なま)りがひどいうえ、ものすごい早口なので、彼の話についていくのはなかなかむずかしかった。その説明するところによると、彼は非常な良家の生まれで、ある個人的な悲しい出来事……大佐の妻と恋に落ちてしまったのだ! ……のためにポーランドを去った。しかし、平凡な生活になじめず、以前よりもいっそう絶望しているというのである。
 「わかってくださるでしょう、メグレ警視……」
  彼は《メグレット》と発音していた。
 「……わたしは紳士です。パリでは、教養も学問もない人々を相手に個人教授をしています……わたしは貧乏です……自殺する決心をしました……」

……「メグレ夫人の恋人」より


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