メグレ警視シリーズ 5

「メグレと宝石泥棒」

ジョルジュ・シムノン作/長島良三訳

ドットブック版 152KB/テキストファイル 97KB

500円

宝石泥棒の陰の黒幕とメグレが目をつけていたマニュエルが自室で銃殺された。車椅子のマニュエルは、若い情婦アリーヌを使って組織を操っていた。密室殺人と連続宝石泥棒の謎に挑むメグレは……
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第一章

 その日は、まばゆくて、快い少年時代の思い出のようにはじまった。メグレの目は理由もないのに……なぜなら人生はすばらしかったから……、朝食を取りながら笑っていた。彼の前に坐っているメグレ夫人の目もおなじように陽気に輝いていた。
 アパルトマンの窓は大きく開け放たれていて、外の匂いや、リシャール・ルノワール大通りの聞き慣れた物音が入り込んできた。すでに熱くなった空気はわなないている。陽光が薄い水蒸気を通して柔らかに差し込んでいた。まるで手で触知できるような感じだった。
「あなた、お疲れになってない?」
 メグレはいつもよりずっとおいしそうなコーヒーを飲みながら、びっくりして答えた。
「なぜ、おれが疲れているんだい?」
「昨日、庭でたくさんお仕事をなさったから……ここ数カ月、あなたは鋤(すき)や熊手を持ったことがなかったでしょ……」
 月曜日、七月七日の月曜日だった。土曜日の夜に、メグレ夫妻はムン・シュール・ロワールにある小さな別荘に行った。この別荘はメグレが定年退職させられる日のために、数年前から用意しておいたものだった。
 あと数カ月で、五十五歳! まるで、病気もしたことがないし、いかなる肉体的ハンディキャップもない五十五歳の男が、とつぜん犯罪捜査課の指揮が不可能になってしまうかのように。
 メグレにとうてい納得できないのは、彼がこの五十二年間を生きてきたからである。
「昨日、おれはほとんど眠っていたよ」と、彼は言った。
日向(ひなた)で!」
「顔にハンカチをかけてね……」
 何という楽しい日曜日だったことか! 天井の低い、青味がかった石畳の台所でとろ火で煮ているシチュー、家のなかに流れ込んでくるおとぎりそう(・・・・・・)の香り、ほこりのため頭にネッカチーフをかぶって部屋から部屋へと行くメグレ夫人、上衣を脱いで、シャツの襟を開き、麦わら帽子をかぶり、庭の雑草を引き抜き、鋤き返し、熊手でかいて平らにするメグレ。最後に、彼は昼食を食べ、この地方の白ぶどう酒を飲んで、赤と黄の縞のハンモック・チェアのなかで眠り込んでしまった。まもなく陽光がふり注いだのに、彼は死んだようになって起きなかった……。
 帰りの列車のなかで、二人ともからだが重くてだるく、まぶたがひりひり痛んだ。しかし、彼らは乾草と、乾いた土と、汗くさい匂い、つまり夏の匂いをぷんぷんさせていた。この匂いはメグレに田舎での少年時代を思い出させた。
「もう少しコーヒーいかが?」
「もらおう」
 夫人の青い小さな格子縞のエプロンさえ、そのすがすがしさと、一種のあどけなさとでメグレをうっとりさせた。また、食器戸棚のガラスの一枚にあたってきらめく陽光も彼をよろこばせた。
「暑くなりそうだな!」
「ひどくね」
 メグレはセーヌ河に面する彼のオフィスの窓を開けて、上衣を脱いで仕事をするだろう。
「今日のお昼は、えびのマヨネーズあえでどうかしら?」
 商店の日除けが薄暗い長方形をつくっている歩道を歩くのも快いものだし、ヴォルテール大通りの角で、明るいドレスを着た若い娘のわきに立ってバスを待つのも快いものだった。
 メグレはツイていた。デッキのついた古いバスが歩道の縁に停ったので、景色や通行人の顔が流れ去るのをながめながらパイプを喫いつづけることができた。
 これがなぜメグレに、昔、パリじゅうを練り歩いた、けばけばしい行列を思い出させたのか? 彼は当時、結婚したばかりで、サン・ラザール警察署の若い、おどおどした秘書にすぎなかった。四頭立ての馬車にはどこかの外国の君主が、盛装したお付きの者たちにかこまれて乗っていた。フランスの近衛兵のかぶとが陽ざしにきらきらと輝いた。
 パリは今日とおなじ匂いを、おなじ光を、おなじけだるさを帯びていた。
 当時の彼は、定年退職のことなど考えてもいなかった。彼の職業の終り、人生の終りは、まだとても遠いように思われた。そんなことに心を奪われる必要がないほど遠いことのように思われた。
 それがいまでは、老いの日々のために別荘を準備しているのだ!
 メランコリーはない。むしろ穏やかな微笑がうかぶ。シャトレ座、セーヌ河、シャンジュ橋の近くに釣師……いつも少くとも一人はいた……。ついで、裁判所の中庭で身振りたっぷりで話している黒い法服を着た弁護士たち。
 やっとオルフェーヴル河岸。彼はこの河岸の石畳の一つひとつを知っているが、危くここから追放されそうになったのだ。
 まだ十日も前にならないが、旧式の警察官を好きではない、権柄ずくな警視総監がメグレに辞職を……警視総監はもっと品よく定年前の退職という言葉を使ったのであるが……要求したのである。メグレが軽率な振舞いをしでかしたというのがその口実だった。
 メグレが書類にざっと目を通してみると、すべてが、ほとんどすべてがうそだった。三日三晩の間、メグレは部下の刑事たちを使うことさえ許されずに、そのことを立証しようと努めた。
 彼はそのことに成功したばかりか、その陰謀の張本人、アカシア通りの歯科医の自供を得たのだった。この歯科医はこの他にも二、三、やましい罪をおかしていた。
 それももう過去のことだった。メグレは立番中の二人の警官にあいさつすると、大きな階段を昇り、オフィスに入った。そして、窓を開け、帽子と上衣を脱ぎ、立ったままパイプにゆっくりとたばこを詰めながら、セーヌ河と船とをながめた。
 毎日が思いがけないことに満ちているのにもかかわらず、彼が思わずしてしまう、慣例のようになってしまったしぐさがある。パイプに火をつけると、刑事部屋のドアを開けるのもその一つだ。
 タイプライターや電話器の前には人がいなかった。バカンスがはじまっていたのである。
「やあ、みんな……ジャンヴィエ、ちょっと来てくれないか?」
 ジャンヴィエは宝石店の泥棒を、もっと正確に言うと宝石店の陳列品泥棒を捜査していた。いちばん新しいのは先週の木曜日、モンパルナス大通りの宝石店で、二年以上前から使われているいつものうまい手口によるものだった。
「何か新しいことは?」
「ほとんど何もありません。またもや若いやつらです。目撃者によれば、二十歳から二十五歳ぐらい。やつらは二人とも例のごとく行動しました。一人はタイヤ取りはずし器でショーウィンドウのガラスをこわし、手に黒い布袋を持ったもう一人が宝石をかっぱらいます。ガラスをこわした男もそれに手を貸すといったぐあいで、この盗みは念入りに仕組まれています。クリーム色のシトロエンDSが二人の男を乗せるためさっと来て、車の流れのなかに消えてしまいました」
「顔にスカーフか?」
 ジャンヴィエはうなずいた。

……巻頭より


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