「重罪裁判所のメグレ」

ジョルジュ・シムノン/小佐井伸二訳

ドットブック版 126KB/テキストファイル 85KB

500円

額縁作り職人ガストン・ムーランの伯母が殺され、貯めこんでいた小金が奪われた。密告する者があり、ムーランに不利な証拠も出て、彼は逮捕され、犯行否認のまま起訴された。ムーランに白の心証をいだいたメグレはその後も捜査をつづけ、律義なムーランとはあまりにも対照的な妻ジネットに疑いを持った。法廷でジネットの素行が明るみに出されて、裁判の成行きは一転し、ムーランは無実の評決を得る……パリの下町に生きる人々を描いて他の追随をゆるさないシムノンの芸。

ジュルジュ・シムノン(1903〜89)ベルギーのリエージュ生まれ。16歳で新聞社の通信記者になり、17歳で処女小説を発表。20歳にはパリに出て、多くのペンネームを使って作品を書きまくる。そのなかで一番の当たりをとったのがジョルジュ・シムノン名義の「メグレ・シリーズ」だった。シリーズの処女作「怪盗レトン」は1930年に27歳のときに書かれて大評判となり、以後、メグレ物をほとんど毎月一冊のペースで発表、シリーズは長短78編に達する。1983年には「筆を断つ」を宣言をしてスイスの山中に閉じこもり、話題をまいた。

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 ここに、二百回、三百回、来ただろうか? あるいは、もっとそれ以上? 彼は数える気がしなかった。特別な訴訟事件、裁判史上に残るきわめて有名な事件さえ思い出す気がしなかった。というのも、ここへ来ることは、彼の仕事のなかで、もっとも辛い面だったからだ。
 とはいえ、彼の捜査の多くは、今日のように重罪裁判所か、あるいは軽罪裁判所に行きつくのだった。できるものなら、そのことは知らずにいたかったし、いずれにせよ、この最後の儀式からは遠ざかっていたかった。その儀式に心から馴染めたためしは一度もないのだ。
 オルフェーヴル河岸の自分の執務室でなら、ほとんどは明け方までかかって決着のつく勝負も、ともかくまだ人間対人間の、言ってみれば対等の勝負だった。
 いくつかの廊下を渡り、いくつかの階段を上り下りする。と、そこはもう違う背景、別の世界だ。そこでは、言葉がもう同じ意味をもっていない。抽象的で荘厳、尊大で珍妙なひとつの世界だった。
 彼は他の証人たちといっしょに、電球の明かりと雨もよいの午後の灰色の光とが溶け合う、黒ずんだ板を張った法廷から出て来たところだった。すでに昔から爺さんだったとメグレがまちがいなく言いそうな守衛は、生徒を引率する小学校の先生よろしく、もっと小さな部屋へ彼らを案内すると、壁に取り付けてある長椅子を示した。
 彼らの多くは素直に坐った。裁判長に命じられたとおりひとことも話さなかったし、仲間の顔を見ることさえためらっていた。
 彼らは前をまっすぐに見ていた。緊張して、内に閉じこもって、自分の秘密をやがて来るおごそかな瞬間まで洩らすまいとして。その瞬間には感動的な広い空間のまんなかでたったひとり尋問されるのだ。
 なんとなく教会の聖具室に控えているようだった。子供のころ、村の教会へ毎朝ミサに行くと、メグレはゆらめく大ろうそくに照らされた祭壇のほうへ司祭のあとからついていくときを待ちながら、同じ心の騒ぎを感じたものだ。姿は見えない信者たちが席に着いたり、教会番人が行き来したりする足音が聞えていた。
 同じように、今も、ドアの向う側で進行しているお定まりの儀式を耳で追うことができた。ベルヌリ裁判長の声だ。細心なところ、重箱の隅をつつくようなところだけではなく、おそらく真実の追求にかける情熱と綿密さとにおいても、彼にかなう裁判官はいないだろう。痩せていて、体が弱く、目が熱っぽくて、よく空咳をする、そんな彼はステンドグラスの聖人に似ていた。
 次に聞えて来たのは、検事席に陣どっているアーユヴァールの声だった。
 とうとう足音が近づいて来た。廷吏だった。扉を半分開けて呼んだ。
「スグレ警視」
 スグレは坐っていなかった。メグレに一瞥を送ってから、外套を着たまま灰色の帽子を手にして、法廷へ入って行った。他の連中は一瞬彼を目で追うと、まもなく自分の番がまわって来ると考え、どうふるまうべきか不安になった。
 窓を通して色らしい色のない空が少し見えていた。その窓はみな手の届かないほど高いところにあって紐を使って開閉していたが、そこには電燈の光がうつろな目の顔をいくつも刻んでいた。
 暑かった。が、だからといって外套を脱ぐわけにはいかない。慣習があって、ドアのこちら側でも、みなそれに留意していたのだ。薄暗い裁判所の廊下伝いに隣からやって来たメグレであっても、同じこと、彼も他の人たちと同様に外套を着て、帽子を手にもっていた。
 十月だった。警視は二日前に休暇からもどったばかりだった。パリを水浸しにしている雨は止むことがないように思われた。リシャール=ルノワール大通りを、次いで自分の執務室をまた見出したが、自分でもいわく言いがたい感慨があった。そこには喜びとともに寂しさも多分混っているのだろう。
 まもなく裁判長が彼の年齢を尋ねるとき、彼は答えることになる。
「五十三歳です」
 つまり、法規によって、二年後には退職するということだ。
 彼はこれまでにもそのことをしばしば考え、そしてしばしば嬉しく思った。だが、この休暇からもどった今度という今度は、退職はもう頭のなかに漠然とある遠い未来のことではなく、避けることのできない当然の帰結、しかもほとんど間近に迫った帰結だった。
 将来は、ロワール川のほとりで過したこの三週間のあいだに、メグレ夫妻が老後を送る家を遂に買ったことで、具体化した。
 家は止むを得ず買ったようなものだった。夫妻は例年のようにマン=シュル=ロワールのホテルに泊った。そこは馴染みの宿で、主人のファイエ夫婦は二人を家族のように思っていた。
 この小さな町のあちこちの壁に貼られたびらが、町はずれにある一軒の家の競売を告げていた。メグレ夫妻は連れ立ってその家を見に行った。それはごく古い建物で、灰色の石の塀に囲まれた庭があり、司祭館を思わせた。
 彼らは青いタイルを敷いた廊下と、そして台所に魅せられた。太い梁を渡した台所で、地面より三段低く、片隅にはまだ水を上げるポンプがあった。居間は僧院の接客室といった感じで、部屋中、小さなガラスのはまった窓から射し込む日の光が格子縞をつけているところなど、いかにも神秘的だった。
 競売となり、メグレ夫妻は部屋の奥に立って、どうしたものかと何度も目くばせをした。遂に警視が手を上げたとき、彼らは不意をつかれ、一方農夫たちがふり返った……。掛け声が二回かかったと思ったら、落札していたのだ!
 生れてはじめて、夫妻は自分たちの家をもつことになった。翌日にはもう配管工と建具屋を呼んだ。
 休暇の終りごろにはその地方の骨董屋めぐりさえはじめた。掘り出し物はフランソア一世の紋章つきの大きな箱で、その箱は一階の廊下の居間のドア近くにおいた。居間には石の煖炉がある。
 メグレは家の件についてジャンヴィエにもリュカにも、誰にも話さなかった。こうして将来に備えたことが、まるで恥ずかしいことででもあるかのように。それがオルフェーヴル河岸への裏切ででもあるかのように。
 昨日、彼には、自分の執務室がもう前とは全然違うところのように思われたし、また今朝は、証人控室で法廷の物音を聞いていると、自分がよそ者のように感じられるのだった。
 二年後には釣りをしているだろう。また、おそらく、冬の午後には、馴染みはじめたキャフェの片隅で、常連といっしょにトランプをしているだろう。
 ベルヌリ裁判長が的確な質問をあびせ、パリ九区の警視も、劣らずに的確な答弁で応じていた。
 メグレのまわりで長椅子に腰かけている証人たちは、男も女も、すべて彼の部屋に入って来たことのある連中で、なかには数時間もそこにいたのだった。が、ここの厳粛さに度を失っているからか、彼らはメグレがわからないらしかった。
 これから彼らに尋問するのがもうメグレではないことはたしかだった。彼らはもう彼らと同じひとりの人間の前に立つのではない。人格のない機械の前に立つのだ。あびせられる質問の意味がわかるかどうかさえおぼつかない。
 ドアが開いた。彼の番だ。九区の仲間と同じように、メグレは帽子を手にして、まっすぐ前を見ながら、証人に当てられた半円形の手摺のほうへ進んだ。
「姓、名、年齢、身分を……」
「メグレ、ジュール、五十三歳、パリ司法警察局警視」
「被告の縁者でも、使用人でもありませんね……。右手を上げて……。宣誓して下さい、真実を述べ、真実以外のことは何も述べない、と……」
「宣誓します……」
 右手には、陪審員のシルエットと、薄暗がりのなかにやや明るく浮き出しているいくつかの顔。そして、左手には、弁護士たちの黒い法服のうしろ、制服の二人の衛視のあいだに坐った被告。彼は組んだ両手に顎をのせて、メグレをじっと見つめている。

……冒頭より


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