メグレ警視シリーズ

「怪盗レトン」

シムノン/稲葉明雄訳

ドットブック 177KB/テキストファイル 121KB

500円

シムノンのメグレ・シリーズ第1作!「狡猾《こうかつ》かつ危険きわまりない人物、国籍不明、おそらくはリトアニアかエストニアの生まれ、英仏独露の四か国語を流暢に話し、詐欺をもっぱらとする国際犯罪団の首領」と目される怪盗レトン。その到着をパリの北駅に待ち受けるメグレ。だが、それらしい男が下車すると同時に、まったく瓜二つとしか言いようのない男の死体が、列車の洗面所に発見される。パリとノルマンジーのフェカンをむすぶ謎はなにか? 雨にけぶる巷に、霧深い地方の港町に、パイプをくわえてのっそりとたたずむメグレ、「犯罪心理の洞察者」「人生の捜査官」メグレの全貌はこの一作でわかる。
立ち読みフロア
国際刑事警察委員会《シー・アイ・ピー・シー》より パリ治安庁へ。
○○○○クラクフ○○○○○○○○○○ピートル・ル・レトン○○○○○○ブレーメン○○。

 機動第一班のメグレ主任警部は、ふと顔をあげた。ストーヴのはぜる音が弱まったようだ。オフィスの中央には鋳物《いもの》のストーヴがすえられ、黒く太い煙突が、天井《てんじょう》にむかって消えていた。
 彼は、その電報をおしやると、のっそり腰をあげた。火口をあけて、石炭を三ばいほど投げこんだ。
 そうしておいて、ストーヴに背をむけて立ち、おもむろにパイプを詰めはじめた。指をさしこんでカラーをゆるめた。いくらゆるめても、窮屈でしかたがないのだ。
 彼は懐中時計をとりだした。四時、上着《うわぎ》は、ドアの内側の鉤《かぎ》にぶらさがっている。そして、ゆっくりとデスクにもどると、さっきの電報をとりあげ、声にだして翻訳した。

 国際刑事警察委員会(コミッション・アンテルナショナル・ド・ポリス・クリミネル)より パリ治安庁へ。
 クラクフ警察より、ピートル・ル・レトンが当該地《とうがいち》を通過し、ブレーメンへむかったむね報告あり。

 国際刑事警察委員会はウィーンに本部をおき、ヨーロッパ内の強力犯罪対策を統轄《とうかつ》している。もっと詳しくいえば、各国警察間の連絡をその任とするものなのだ。
 メグレは二本めの電報をひきよせた。これも同様に『ポルコ』で書かれていた。『ポルコ』というのは、いわば一種の国際暗号で、全世界警察組織の通信用として使用されているものである。
 メグレは眼でたどりながら翻訳した。

 ブレーメン警察から パリ治安庁へ。
 ピートル・ル・レトンは、アムステルダムからブリュッセル方面へむかったことを報告する。

 三本めの電報は、オランダ警察本部発信のもので、こんなふうに読めた。

 ピートル・ル・レトンは、本日午前十一時、列車『北極星号』に乗車した。目的地はパリ。車輛《しゃりょう》番号五。車室番号G二六三。

 最後の至急電報はブリュッセル発信のもので、暗号でこう書かれていた。

 ピートル・ル・レトンは、午後二時、『北極星号』にてブリュッセル通過の事実が確認された。車室はアムステルダム電に同じ。

 デスクのうしろの壁に、大きな地図がかかっている。メグレはその前にどっかと巨躯《きょく》をすえた。両手はポケットにいれたまま、口のはしからパイプが突きだしている。
 彼の視線はクラクフをあらわす点から、反対側のブレーメン港をしめしている点までのび、さらにアムステルダムからブリュッセルへ移動した。
 もう一度、時計をながめた。四時二十分。『北極星号』は時速百十キロのスピードで、サン=カンタンとコンピエーニュのあいだを走っているはずだった。
 国境でも停車しない。速度を落とすこともない。
 第五車輛のG二六三号車室では、ピートル・ル・レトンが新聞かなにかに読みふけっていることだろう。あるいは、窓外にとび去る風景に目を奪われているかもしれない。
 メグレはいっぽうのドアへむかった。そのなかは造りつけの戸棚になっている。琺瑯《ほうろう》びきの洗面台で手をあらい、こわい頭髪に櫛《くし》をいれた。髪はくらい栗色《くりいろ》で、鬢《びん》のあたりにわずかに白いものが判別できる。それから、申しわけのようにネクタイを締めなおした。いまだかつて、それはきちんと結ばれたためしがなかった。
 十一月の日が暮れかかっていた。窓ごしにセーヌの流れがみえる。サン・ミシェル広場。洗濯場。一つまた一つと、ガス燈がともされて、すべては青い靄《もや》にかすんでいた。
 彼は引出しをあけて、コペンハーゲンの国際犯罪人鑑別局(ビュロー・アンテルナショナル・ディダシチフィカション)からの至急電報に目をはしらせた。

 パリ治安庁あて。
 ピートル・ル・レトン。32 169 01512 0224 0255 02732 03116 03233 03243 03415 03522 04115 04144 04147 05221 ……

 こんどは、わざわざ大声をあげて翻訳し、さらに、小学生が学課を暗誦するように、何度かくりかえして読んだ。

 ――ピートル・ル・レトンの特徴挙示。
年齢三十二歳前後。身長一六九センチ。鼻梁《ビリョウ》直線、鼻底水平。鼻尖《ビセン》最大限、鼻中隔《びちゅうかく》ミエズ、耳ノ輪郭ニ大イナル特徴アリ。耳輪原形耳垂《じすい》大キク、径大ニシテ横径限度。対耳珠《ついじしゅ》突出シ、下部耳輪ハ襞状《ヒダジョウ》ヲナス。頭蓋正顎《ズガイセイガク》、面長デ両頬《リョウホオ》クボム。眉毛《マユゲ》ハマバラニシテ明ルイぶろんど。下唇《カシン》突出シ、幅ヒロク、下方ニムカッテ垂ル。頸《クビ》ナガシ。眼ハ角膜アワイ黄色、虹彩ハ緑ガカッタ色ヲ帯ブ。頭髪ハアカルイ金髪。

 以上がピートル・ル・レトンの人相特徴書であった。メグレにとっては、これはへたな写真などより、よほど雄弁な効果をもっていた。最初におもだった特徴がしめされている。やせがたの小柄な青年。ひじょうに明るい色の頭髪。おなじくブロンドのまばらな眉毛。緑いろがかった眸《ひとみ》。ながい頸。
 さらにメグレは、耳の特徴について、とくに詳しく心にとめていた。これさえあれば、雑沓《ざっとう》のなかであろうと、またかりにピートル・ル・レトンが変装していようと、ひとめで判別できるはずだ。
 彼は上着を鉤《かぎ》からはずして着こんだ。その上から重い黒の外套《がいとう》をはおり、頭に山高帽をのせた。
 もう一度ストーヴに目をやった。また燃えはじめたようだ。
 ながい廊下をぬけて、控え室代用の踊り場までくると、ジャンに声をかけた。
「おい、ストーヴを頼んだぞ!」
 階段では、ふきこんでくる突風が、彼をおどろかせた。片隅《かたすみ》へからだをよせて、パイプに火をつけねばならなかった。

 宏大《こうだい》なガラス屋根でおおわれているにもかかわらず、北停車場《ガール・デュ・ノール》の各ホームには、強風が吹きあれていた。屋根のガラスの何枚かがわれて、下の線路に破片をちらしている。照明もうす暗かった。だれもが外套のなかに身をちぢめていた。

……冒頭より

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