メグレ警視シリーズ13

「モンマルトルのメグレ」

ジョルジュ・シムノン作/矢野浩三郎訳

ドットブック版 159KB/
テキストファイル 113KB

500円

モンマルトルの怪しげなキャバレー《ピクラッツ》の踊り子アルレットは酔っぱらった勢いで警察に出頭し、殺しが行われるかもしれないとほのめかした。酔いが醒めるとそれを否定したが……ほどなく彼女は自室で絞殺死体となって発見され、予言のように口にした「伯爵夫人殺し」も現実となった。彼女が同時に口にした「オスカル」という人物は何者なのか? パリの場末のモンマルトルを舞台にタフなメグレは奔走する。メグレもの屈指の名編。
立ち読みフロア

 ジュシオム巡査の夜の勤務は、毎日おなじことの繰返しであった。時間にいくらかのずれはあるにしても、いつもおなじ場所を巡回する。往き来する人たちまできまりきった日常風景の一部となってしまっていて、彼はその人たちを、いつのまにか機械的に記憶していた。いわば駅のそばの住人が、列車の発着をいつしか心の底に刻みこんでしまうのと、似ていたかもしれない。
 霙(みぞれ)が降っていた。ジュシオムはフォンテーヌ街とピガル街の角で、いっとき軒下に身をよせていた。ほとんど灯の消えたこの界隈で、キャバレー《ピクラッツ》の紅いネオンが、濡れた舗道に、血溜りのような光を映していた。
 月曜日。モンマルトルの暇な日である。ジュシオムはこのへんの店がどの順序で閉店していくか言いあてることもできた。やがて《ピクラッツ》の順番がきてネオンが消えた。背の低いずんぐりの主人(あるじ)が、タキシードの上に色褪せたベージュのレインコートをはおって、道路に出てくると、シャッターのハンドルをまわしはじめた。
 人影(それは子供のように見えた)が、ピガル街の家並みにそって、滑るように、ブランシュ街の方向へ下っていった。つづいて男が二人、クリシー広場のほうに上っていく。その一人は小脇にサキソフォンのケースをかかえていた。
 まもなく男がもう一人、オーバーの襟をたてて、サン・ジョルジュ広場のほうへむかった。
 ジュシオム巡査は彼らの名前も知らないし、顔もほとんどわからないけれども、そのシルエットだけはほとんど見分けがついた。
 こんどは女が出てくる番だということを、彼は知っていた。女は明るい色のひどく短い毛皮のコートを着て、極端に高いハイヒールで、足速にせかせかと歩いてきた。こんな朝の四時に、往来に一人でいるのが怖いみたいなようすだった。それでいて彼女の住んでいる家までわずか百メートルしかないのである。この刻限にはすでにドアが閉ざされているので、彼女は呼鈴をならさなければならない。
 最後に女二人が出てきた。いつも二人いっしょだ。小声でひそひそ話しながら街角までくると、彼のいる数歩そばで二人は別れた。年かさのからだの大きいほうが、腰をふらふらゆすりながらピガル街をルピック街まで上っていった。彼はそのルピック街で彼女が家に入るところをなんども見ている。もう一人のほうはその場にぐずついている。こちらを見て話しかけたそうなようすをしていたが、やがて帰り途であるノートルダム・ド・ロレット街を下りては行かずに、ドゥエ街の角にあるカフェのほうへ歩きだした。カフェはまだ灯をつけていた。
 彼女は酔っているようだった。帽子はかぶっていない。街灯の下を通るとき、金髪がきらりと光るのが見えた。ゆっくりとした足取りで、ときおり立ちどまっては、ひとりごとを呟いているようすだった。
 カフェの主人が親しげに話しかけた。
「コーヒーかい、アルレット?」
「アロゼにして」
 すぐに、コーヒーに暖められたラム酒特有の芳香がひろがった。男が二、三人カウンターで飲んでいたが、彼女は目もくれなかった。
 のちに主人はこう述懐している、
「あの娘(こ)はひどく疲れているようでした」
 おそらくそのためか、彼女はラム酒をダブルで入れたカフェ・アロゼを二杯も飲んだ。バッグからお金を出すのもやっとという感じだった。
「おやすみ」
「おやすみ」
 彼女がまたもどってくるのを、ジュシオム巡査は見ていた。通りを下ってくる足取りは、上っていったときよりもおぼつかなかった。そばまでやってくると、暗闇で彼の姿をみとめて、面とむかいあった。
「あたし、警察に知らせたいことがあるんだけど」
「かんたんだよ。署は知ってるだろ」
 街警察署はほぼ通りの向かい側にあった。いってみれば《ピクラッツ》の裏手にあたるラ・ロシュフコー街にあったのだ。二人がいま立っているところからも、青い角灯と、壁ぎわに並んだ自転車パトロール班の乗り物が見えていた。
 彼は最初、女が警察へは行かないだろうと高をくくっていた。ところが彼女は通りをわたると、街警察署の建物のなかへ入っていったのである。
 彼女が照明の悪い署内に入ってきたのは、四時三十分であった。署内にはシモン巡査部長と、任官前の若い巡査見習が一人いたきりである。
 彼女はさっきの言をくりかえした。
「知らせたいことがあるんですけど」
「いいとも、話してごらん」
 シモンが応じた。彼はこの署にきて二十年になるベテランである。
 彼女は厚化粧をしており、ぬりたくったメーキャップが剥げかけていた。模造ミンクのコートの下に、黒繻子(しゅす)のドレスを着ている。署内の人間と一般人の位置をへだてる手摺につかまって、からだがゆらゆら揺れていた。
「ある犯罪のことなんだけど」
「つまり犯罪が行われた、ということかね?」
 壁に大きな電気時計が掛かっていた。彼女はその針の位置になにか特別な意味があるかのように、時計をみつめた。
「行われたかどうかは知らないわ」
「だったら、犯罪じゃない」
 巡査部長は若い仲間に目くばせをした。
「でも、たぶん行われるのよ。それはたしかだわ」

……「第一章」冒頭

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