メグレ警視シリーズ

「男の首」

ジョルジュ・シムノン作/宗左近訳

ドットブック版 153KB/
テキストファイル 107KB

400円

その男は二人の女性を殺害した容疑で死刑を宣告され、刑務所に収容された。状況証拠が圧倒的に不利なことは明らかだったが、メグレの勘では「白」だった。やがて死刑囚のもとに脱獄を手引きする手紙が届けられる。男は疑いつつも誘いに乗る。メグレは司法当局を説き、みずからの名誉と職とを賭けて、「泳がせてみる」という大ばくちを打ったのだ。だが、まったく凡庸としかみえなかった男は、まんまとその裏をかいて行方をくました。しかも、翌日の新聞には、「警察と司法とがぐるになって仕組んだ芝居だった」という暴露記事まで掲載されたのだ。メグレはあせった。もち時間は少なかった……
立ち読みフロア
 どこかで二時の鐘がなった。寝台の上で、その囚人は、大きなふしくれだった手に、折りまげたひざを抱えこみ、なにかを決心しかねているように、一分ばかり、じっと動かなかった。が、ふと深い息をついたかと思うと、手足を伸ばして、独房のなかで立ちあがった。
 ばかに頭の大きな、腕だけがむやみに長い、くぼんだ胸の、不恰好(ぶかっこう)な大男である。
 その顔には、虚脱した表情しかなく、人間ばなれのした無関心さしか、浮かんでいなかった。彼は、覗(のぞ)き窓のしまったドアに向かう前に、一方の壁へ握り拳(こぶし)を突きだした。
 その壁をはさんだ隣りにも、まったく同じ型の独房があった。ラ・サンテ監獄の、死刑囚監房である。
 その監房では、他の四つの独房の囚人と同じように、ひとりの死刑囚が、特赦(とくしゃ)か、あるいは、深夜に無言で彼をゆり起こす、ものものしい死刑執行吏の一団を待っていた。
 この五日間というもの、隣りの囚人は、たえまなく呻(うめ)きつづけていた。あるときは、単調でおもくるしく、またあるときは、反抗の叫び声をあげ、涙を流してわめきたてた。
 十一号監房の囚人は、隣りの監房の男を見たこともなかったし、その男について、なにも知らなかった。その声からおして、かなり若い男だと判断するのがせいぜいだった。
 もう、隣りの監房の呻き声は、疲れはてて、機械的にくりかえされるだけである。だが、いま立ちあがった十一号監房の囚人は、この男とは反対に、その眼に憎悪(ぞうお)の光をたたえ、ふしくれだった握り拳に、力をこめていた。
 廊下からも、構内からも、中庭からも、城塞(じょうさい)のようなラ・サンテ監獄のどこからも、そして、監獄の周囲の街路からも、パリの市街からも、もの音は、なにひとつきこえてこない。
 きこえるのは、十号監房の囚人の呻き声だけである。
 十一号監房の囚人は、硬(こわ)ばった指をのばし、ドアをつかもうとして、二度ばかりふるえた。
 独房には灯(ひ)がともっていた。これは、死刑囚監房の規則である。その規則では、看守がひとり廊下にいて、一時間ごとに、五人の死刑囚の房を、覗き窓をあけて調べることになっている。
 十一号監房の囚人の両手は、ドアの把手(とって)にふれた。不安にふるえているために、かえってその手つきはものものしかった。
 ドアがあいた。廊下には、看守の椅子(いす)があった。だが、だれもいない。
 十一号監房の囚人は、足ばやに歩きだした。めまいがして、腰をまげたまま進んだ。顔はつやがなく、蒼白(そうはく)だ。緑色がかった眼の上のまぶただけが、赤い。
 囚人は三度ひき返した。通路を間違えて、しまったドアにつきあたったのだ。
 廊下の奥で人声がする。数人の看守が、詰所でたばこをすいながら声高に話しているのだ。
 やっと中庭に出た。暗闇(くらやみ)のところどころを、屋外燈が明るく円を画いて照らしている。百メートルばかり先の表門のところで、守衛がひとり、靴(くつ)の先で地面を蹴って暖をとっている。
 向こうの窓がひとつ明るく灯がついていて、ひとりの男がパイプをくわえて、机いっぱいにひろげた書類に向かっているのが見える。
 十一号監房の囚人は、食器の底に貼りつけてあった三日前の手紙を、もう一度読みたかった。だが、その手紙は、差出人の指示どおりに、噛(か)んでのみこんでしまった。つい一時間前までは、その手紙の文句を覚えていたが、いまでは、はっきり思い出せない個所が数行もあった。

 十月十五日午前二時、きみの監房の鍵はあいている。看守は他の場所で仕事をしている。もし、きみがつぎの道順でゆけば……

 彼は熱い手を、額にあてた。そして、弧を画く屋外燈の光を、おびえながら眺めた。

……「一 死刑囚監房十一号室」より

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