メグレ警視シリーズ 6

「メグレ氏ニューヨークへ行く」

ジョルジュ・シムノン作/長島良三訳

ドットブック版 121KB/テキストファイル 122KB

500円

ロワール河畔の別荘で、夫人とともに定年退職後の静かな生活を送っていたメグレ。そこへ突然、アメリカの大富豪の息子が訪れ、極秘の調査を依頼した。この青年の懇願で、ニューヨークへ旅立ったメグレは……
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 船が検疫所に着いたのは、朝の四時ごろにちがいない。船客の大部分はまだ眠っていた。錨(いかり)の騒々しい物音を夢うつつに聞いた者も何人かあったが、あれほどたがいに約束していたにもかかわらず、デッキに出てニューヨークの明りを見ようとする者などはほとんどいなかった。
 航海の最後の数時間がもっとも海が荒れた。自由の女神から数百メートルの、ハドソン河の河口に来ているのに、船はいまでも強いうねりのために揺れていた。雨が降っていた。というより霧雨だった。冷たい湿気が落ちてきて、すべてに滲(し)み込み、デッキは黒ずんで、滑りやすくなっており、手すりや金属の防水隔壁は漆(うるし)を塗ったようになっていた。
 メグレは機関の止まった瞬間、パジャマの上に厚ぼったいオーバーをひっかけて、デッキに昇って行った。二、三の人影がよろめきながら大股で行ったり来たりしていた。船の縦揺れのため、それらの人影はメグレの頭の上になったり、下になったりして見えた。
 メグレはパイプをくゆらせながら、ニューヨークの明りと、検疫と税関の順番を待っている他の船をながめていた。
 ジーン・モーラの姿は見えなかった。ジーンの船室の前を通りかかったとき、明りがついていたので、もう少しでノックするところだった。ノックをしたところでなんになる? メグレは髭(ひげ)を剃るために船室にもどった。それから酒を飲んだ……こうした細々(こまごま)した取るに足らないことまで思い出さなければならない……、メグレ夫人がバッグの底にしのばせておいてくれたマール・ブランデーの壜を手に取って、一口ラッパ飲みしたのである。
 そのあと、なにがあったか? メグレにとっては五十六歳になっての初めての航海であったが、興味をひかれることもなく、風景にも無感動であることにひどくおどろいていた。
 船内がざわついてきた。スチュワードが廊下を荷物をひきずって行く物音や、船客たちがつぎつぎにボーイを呼ぶベルの音が聞こえた。
 下船の準備を終えて、メグレはふたたびデッキに昇って行った。もやがかかったような霧雨は乳白色になりはじめ、眼の前にあるマンハッタンのコンクリートのピラミッドのなかの明りが弱まってきた。
 「怒っていらっしゃるんではないですか、警視?」
 若いモーラだった。たったいま近づいてきたのだ。モーラの顔は蒼ざめて見えた。もっともその朝デッキにいた船客のすべてが、生気のない顔色と、疲れた眼をしていたのだが。

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