メグレ警視シリーズ

「メグレと政府高官」

ジョルジュ・シムノン作/長島良三訳

ドットブック版 153KB/テキストファイル 107KB

500円

高地に建設された子供のためのサナトリウムが洪水に見舞われ、128人が犠牲に。この大惨事を予測し、警告を発していた学者、故カラム教授のレポートが盗まれていた。政府高官の首がかかった難事件に極秘調査を命じられたメグレは……
立ち読みフロア
 その夜、家に帰ってくると、メグレはいつものように街燈を少し過ぎたあたりの歩道で立ち止り、アパルトマンの明るい窓のほうへ顔を上げた。それは無意識的なしぐさだった。だから、明りがついていたかどうか、だしぬけにたずねられたら、答えをためらわざるをえなかっただろう。またこれも一種の癖(くせ)なのであるが、三階と四階の間で、ズボンのポケットの鍵を取るためコートのボタンをはずしはじめる。靴拭きマットの上に足をおくや、いつでもドアが開くというのに。 これらは数年間かかってできたならわしで、彼は自分で思っている以上にこれらのならわしに固執していた。今夜は雨が降っていないから、あてはまらないが、たとえばメグレ夫人は身をかがめて彼の頬にキスすると同時に濡れた傘を彼の手から取るため特別なしぐさをする。
 メグレはおきまりの言葉を言った。
 「電話はなかったかい?」
 夫人はドアを閉めながら答えた。
 「ありました。でも、コートぐらいお脱ぎになったらどうですか」
 今日一日は、暑くも寒くもなかったが、灰色がかった曇り空だった。午後の二時頃、にわか雨があった。パリ警視庁で、メグレは日常の業務ばかりしていた。
 「食事してきたの?」 アパルトマンのなかの明りはオフィスのより暖かくて、親しみがもてた。彼は肱掛椅子のわきにおかれている新聞と、スリッパに目をやった。
 「ビヤホール《ドフィーヌ》で、局長とリュカとジャンヴィエと食事したんだ」
 食事のあと、彼ら四人は警察相互救済会の集りに出た。三年前から、メグレはいやいやながらもこの会の副会長に選ばれていた。
 「コーヒーを一杯ぐらい飲んでいく時間はありますわ。それにコートをお脱ぎになったら。あなたが十一時前には帰らないと言っておきましたから」
 十時半だった。集会は長くはかからなかった。ビヤホールで生ビールを飲んで帰る者もあった。メグレは地下鉄で帰ってきた。
 「だれからの電話だ?」
 「大臣」
 客間のまん中に立ったまま、メグレは眉をひそめながら彼女を見た。
 「どの大臣だ?」
 「公共事業省の。たしかポワンという人だったと思いますけど」
 「オーギュスト・ポワンだ。ここに電話してきたのか、自分自身で?」
 「ええ」
 「警視庁のほうへ電話をするように言わなかったのか?」
 「あの人はあなたに個人的に話したがっていました。至急会いたいそうです。あなたがまだもどっていないと答えると、あの人はわたしが女中かと訊きました。いらいらしているようでした。わたしがメグレの家内ですと言うと、失礼しましたと詫び、あなたがどこにいるのか、いつ帰ってくるのか知りたがりました。小心な男のような気がしましたけど」
 「彼の評判はそうじゃないな」
 「わたしが一人なのかどうか知りたがりました。そのあとで、この電話のことは秘密にしておかなければならない、だから公共事業省からではなく、公衆電話から掛けているのだと説明しました。できるだけ早くあなたと接触を取ることがあの人にとっては重要なのだそうです」
 夫人がしゃべっている間じゅう、メグレは政治への不信を示すかのようにあいかわらず眉をひそめて彼女を見つめていた。これまでにも政治家……国民議会議員や元老院議員やある政府高官などから何度か助けを求められたことがあったが、その場合いつでも正規のルートを通してであった。そのたびに彼は局長のオフィスに呼ばれ、いつでもこう切り出されるのであった。
 「すまんがメグレ、嫌な事件を引受けてもらいたいんだが」
 その言葉のとおり、それらの事件はいつでもかなり嫌なものだった。

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