「メグレの退職旅行」

ジョルジュ・シムノン/長島良三訳

ドットブック版 175KB/テキストファイル 130KB

500円

メグレにも退官のときはある。2日後の退官をひかえて、ひとり身辺整理にあたる。電話が鳴る、自動的に受話器に手がのびる、ホテルで男が殺されたという、出かけずばなるまい(ホテル「北極星」)。メグレの定年前後を扱った3編をふくむ6編からなる短編集。「メグレ夫人の恋人」の続編。

ジュルジュ・シムノン(1903〜89) ベルギーのリエージュ生まれ。16歳で新聞社の通信記者になり、17歳で処女小説を発表。20歳にはパリに出て、多くのペンネームを使って作品を書きまくる。そのなかで一番の当たりをとったのがジョルジュ・シムノン名義の「メグレ・シリーズ」だった。シリーズの処女作「怪盗レトン」は1930年に27歳のときに書かれて大評判となり、以後、メグレ物をほとんど毎月一冊のペースで発表、シリーズは長短78編に達する。1983年には「筆を断つ」を宣言をしてスイスの山中に閉じこもり、話題をまいた。

立ち読みフロア


『マリナ』の店にたまたま入ってきた客は何も気づかなかったにちがいない。店の主人リュシアンは厚手のセーターを着ているので、ふだんより小柄で、肩幅が、がっしりみえた。彼はカウンターの後ろの壜《びん》をいじり回しては、中身を移し換えて栓《せん》をし直し、その栓の革を丹念に新しいのと取り替えている。リュシアンがむっつりしているのは、時間と、天候のせいかもしれない。
 いつもよりどんより曇っている、寒い朝だからだ。いまにも雪が降りそうな、ベッドのなかにいつまでもいたいような朝。九時になったばかりで、ピガール通りはまだ活気づいていなかった。
 たまたま入ってきた客はたぶん、ストーブに背中を向けてパイプを吹かし、アルコールグラスを手で温めている分厚いオーバーを着た肥った男を何者だと考えるだろう。しかし、その男が司法警察局のメグレ警視だとは思いもおよばないはずだ。
 床にしゃがみ込んで、テーブルの脚を拭《ふ》いているのは、ブルターニュ人の女中だ。いつもおびえているような様子をしている。そばかすだらけの顔で、ひどい身なりをしている。
 ピガール通りのレストランで、朝早くから開店するところはめったにない。『マリナ』だってまだ掃除が終っていない。汚れたグラスが置き放しになっている。調理場のドアが開いていて、女主人マリナの姿が見える。女中よりもっとうす汚い恰好《かっこう》で、疲れ切った様子だ。
 店内はかなり静かで、打ち解けた感じだった。奥のテーブルには、まだ二人の男がいる。ひげを剃《そ》っていないし、スーツが徹夜したようにしわだらけになっているにしては、それほど胡散臭《うさんくさ》くはない。
 実際、不意に入ってきた客はこの店を、どこにでもある小さなレストランとしか思わないだろう。常連の集まるレストラン、もちろんあまりきれいではないが、寒い朝には感じの悪くない店。
 しかしその考えも、メグレが突然コート掛けにあるらくだ《ヽヽヽ》の毛皮のオーバーを見つけ、そばに行き、ポケットに手を突っ込んでアメリカ製の棍棒《こんぼう》をあっさり引き出すのを見れば、ついで人のよさそうな口調でこう言うのを聞けば、変わってしまうにちがいない。
「おい、クリスティアニ……相変らず私をなぐった棍棒を持っているのか?」

 いまから三十分前、メグレがパリ警視庁に出勤したとき、匿名《とくめい》の電話がかかってきた。メグレと個人的に話したいと言うのだ。電話の相手はできるだけ声を変えようと努めている。
「あんたかい、警視さんて……あのな、昨夜『マリナ』の店で一騒動あったんだ……ちょっくら、あそこまで出向いてみな……あんたの友達のクリスティアニにお目にかかれるからよ……そしたらやつに、マルティノのことを訊くといい……マルティノのこと知ってるだろ、アンティーブ生れのチビさ、ほら、彼の兄貴が昨日逮捕されただろ?……」
 五分後に、メグレは電話局によって、この匿名電話がノートルダム・ド・ロレット通りの『たばこ屋』からかかってきたことを知った。十五分後には、ピガール通りの角でタクシーを降りた。道ばたの溝《みぞ》には、ごみ屑《くず》がたくさん水に押し流されていた。
 まだ何もわかっていないメグレには、この情報が信頼できるものに、まじめに受け取っていいものに思えた。こうした密告《たれこみ》がいんちきであることはめったにないからである。
 だから、彼はすぐに行動した。ピガール通りをゆっくりと上がった。『マリナ』のほぼ正面に、炭屋のやってる小さなバーがある。両側をキャバレーにはさまれているのでうっかりしていると見すごしてしまうほどだ。このバーのなかで、二人の男が窓際で見張っているのに警視は気づいた。ニース野郎と、ペピト野郎だ。こんな朝早く、こうした場所にいるはずのないやつら。
 メグレはバーと向い合っているレストランのドアを開けた。店内の奥に、クリスティアニが新顔の若造と一緒にいる。ルネ・ルクールという若造で、『会計係』というあだ名がある。マルセイユで銀行員をしていたことがあるからだ。
 こうした場合は、何気ないふりをしていたほうがいい。メグレは山高帽に手をやり、一杯やりにきたお人よしの常連といった態度であいさつした。
「元気かい、リュシアン?」
 それでも、リュシアンの手のなかのタオルはふるえているし、女中はいきなり立ち上がってテーブルに頭をぶつけてしまった。
「昨夜は、お客が多かったのかい? コーヒーと、カルヴァドスを小グラスで頼む……」
 それから調理場に入っていき、
「どうだい調子は、マリナ?……カウンターの上の鏡が割れているじゃないか……」
 メグレは鏡が拳銃の弾丸で割れたことを一目で見てとった。
「あれはもう古いから……」と、リュシアンがあわてて説明した。「最近拳銃を買ったばかりの、あっしの知らない野郎が、弾丸が入っているのを知らないで……」
 このとき以後、すべてはゆるやかに過ぎていく。メグレがここにきてからもう十五分以上経っているのに、台詞《せりふ》のやりとりがあまりない。女中が拭き掃除をつづけ、リュシアンがカウンターのなかに居残り、マリナが調理場で動きまわっているので、警視はパイプを吹かし、アルコールを飲み、ときどき正面のバーにちらっと目をやりに行っては、またストーブのそばにもどってくるだけだった。
 メグレはこの店をよく知っていた。リュシアンはマルセイユで警察沙汰《ざた》を起こしたあと、まじめになって、モンマルトルでこの小さなレストランを開き、女房とやっているのである。客は昔の仲間が多かった。彼らはもちろんやくざだったが、大部分はリュシアンのようにおとなしくなり、まじめに市民生活を送っている。
 クリスティアニとメグレとのかかわりは十年前になる。メグレが逮捕しようとすると、クリスティアニはためらいもみせずにアメリカ製の棍棒でメグレをなぐりつけたのである。いまではクリスティアニはパリに『店』を二軒、バルスロネットに一軒持っている。
 正面にいるのあほぼおなじようなやつらだ。とくにニース野郎はクリスティアニのように『店』を持っていて、まずいことに商売がたきときている。
 ニース野郎は、暗黒街で言うところの、マルセイユ派のやくざだった。一方、クリスティアニはコルシカ派の親分だ。
「おい、おまえの友達はずっと前から正面のバーにいるのか?」
「あんなやつらのことは知らねえよ!」と、クリスティアニは軽蔑口調《けいべつくちょう》で言った。
「そうか……しかし私には、おまえの様子をうかがっているようにみえるんだが……なあ、おまえが男であることを知らなかったら、私はあの小さなバーに彼がいるから、おまえがここから出られないんだと思ってしまうぞ……」
 間。カルヴァドスを一口。
「そう……こうやっていると、あれこれと考えてしまう……昨夜、何らかの理由で、一悶着《ひともんちゃく》あった……それ以来、ニース野郎とペピト野郎はあそこでおまえたちを待ち伏せている。そのため、おまえたち二人はここの腰掛けの上で眠らざるをえなくなった……」
 話しながら、メグレは『会計係』に近づき、上衣《うわぎ》の皺《しわ》を伸ばしてやった。
「しかし、どんなことが起こったのか。リュシアンがごたごたを好まないことはよくわかっているし、クリスティアニ、おまえはもう法を犯すような人間じゃないし……ところで、昨日レ島で逮捕されたマルティノの兄が、おまえによろしくって……」
 話にとても心がこもっている! 人のよさそうなところさえある! それでも、クリスティアニはびくっとなった。メグレは会計係がうまいぐあいに立っていたので、ポケットをさぐり、飛出しナイフを引っぱりだした。
「危険じゃないか、えっきみ! こんな玩具《おもちゃ》を持って散歩なんかしちゃいけないよ……クリスティアニ、おまえはポケットに何も入れてないな?」
 クリスティアニは肩をすくめると、スミス&《アンド》ウェッソンの回転式拳銃《リボルバー》を取り出して、警視にわたした。
「おや、弾丸《たま》が一発欠けているじゃないか……鏡を割った弾丸がそうなのだろう……しかし驚いたな、何でまた、このリボルバーを取り替えておかなかったんだ、銃身の指紋も拭いてないし……」
 メグレはオーバーのポケットに飛出しナイフ、棍棒、リボルバーをしまった。それから、そしらぬふりをして、店内のすみずみをさがした。冷蔵庫や、電話室を開けてみたりもした。だが、もっぱら働かせていたのは頭のほうである。彼は理解しようとしていた。いろいろと仮説を組み立てては、つぎつぎと退けていった。
「ニース野郎がマルティノになんて言ったか知っているか、兄貴は『密告された』と教えたのさ。少なくとも私はそのように聞いている……この情報《ねた》をおまえに知らせるのは、おまえにマルティノを避けさせたいためだ。マルティノはおまえを非難するだろうし、やつはいつも武器を持っている……」
「何を言いたいんです?」と、クリスティアニがつぶやいた。見かけはメグレとおなじように冷静を保っている。
「何にも……私はマルティノに会いたい……なぜかわからないが、ひどく会ってみたいんだ……」
 とりあえず、メグレはレストランにも、調理場にも、リュシアンの寝室にも、そのわきのマリナの寝室にも隠れている人間――死体であろうと、生きていようと――がいないことをたしかめた。
 九時半に、配達人がアペリチフを一箱持ってきた。ついで、その直後に、デュシュマン運送会社の黄色い大型トラックが、店の前で停《とま》り、またすぐに走り去った。
「ソーセージを一切れくれないか、マリナ、自家製のやつをね……」
 急にメグレは眉《まゆ》をひそめた。寝室から人が出てきたからだ。この新参者《しんざんもの》も警視同様、驚いている。
「どこから来たんだ、おまえは?」
「おれは……おれはベッドの下に寝ていた……」
 クリスティアニの商売を手伝っている仲間のフレッドだ。フレッドは嘘《うそ》をついている。さきほどメグレは寝室にだれもいなかったことをたしかめている。
「私のみるところ」と、警視はぶつぶつ小声で言った。「おまえたちはみんな、どうしてもこの家から離れたくないみたいだな!……おまえも拳銃をよこせ……」
 フレッドはためらったが、拳銃をわたした。これもスミス&ウェッソンのリボルバーである。弾丸は一発も欠けていない。
「あとで返してくれるんでしょうね?」
「まあな……それもマルティノが私にどんなことを言うかにかかっている……私は彼を待っている、間もなく来るだろう……そうさ、私はここで彼と会う約束をしたのさ……」
 メグレは三人の顔色をうかがった。ルネ・ルクールの顔が青ざめた。彼はグラスになみなみとつがれているアルコールをあおった。
 もう少しだ……わかりかけてきたぞ。メグレはトラックがとおりすぎた通りに目をやった。その瞬間、ぱっと頭にひらめいた。
「受話器を取ってくれ……」メグレはクリスティアニに命じた。メグレは電話室に入りたくなかった。そこからだと、この男たちが見張れないからだ。

……「ピガー通り」巻頭より


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