メグレ警視シリーズ 1

「メグレと殺人者たち」

ジョルジュ・シムノン/長島良三訳

ドットブック版 128KB/テキストファイル 122KB

500円

ひっきりなしに電話でメグレに救助と保護を求めた正体不明の男は、コンコルド広場で無惨な他殺体で発見された。死者の妻の名はニーヌ、胃の中には鱈(たら)料理……数少ない手がかりを懸命に追うメグレ。メグレものの代表傑作。

ジュルジュ・シムノン(1903〜89)ベルギーのリエージュ生まれ。16歳で新聞社の通信記者になり、17歳で処女小説を発表。20歳にはパリに出て、多くのペンネームを使って作品を書きまくる。そのなかで一番の当たりをとったのがジョルジュ・シムノン名義の「メグレ・シリーズ」だった。シリーズの処女作「怪盗レトン」は1930年に27歳のときに書かれて大評判となり、以後、メグレ物をほとんど毎月一冊のペースで発表、シリーズは長短78編に達する。1983年には「筆を断つ」を宣言をしてスイスの山中に閉じこもり、話題をまいた。

立ち読みフロア
 「失礼、奥さん……」 しばらくじっと我慢したあとで、メグレはやっと女客の話をさえぎることができた。
 「いま、娘さんがあなたを時間をかけて毒殺しようとしていると言いましたね……」
 「そのとおりですの……」
 「さきほどは、あなたの義理の息子さんが廊下でうまく女中とすれちがい、あなたのコーヒーや、いろいろお飲みになる煎(せん)じ薬のなかに毒を流し込むと、やはり確信ありげに断言しましたが……」
 「そのとおりですの……」
 「しかし……」と、メグレは一時間以上つづいているこの会見のあいだ、取っていたメモを調べた、というより調べるふりをした。
 「初めに、あなたは娘さんとその婿(むこ)さんが憎み合っていると言いましたよ……」
 「それもそのとおりですの、警視さん」
 「それではふたりは一緒になってあなたを殺そうとしているのですね?」
 「とんでもございません! はっきり申しますと……そのふたりは別々にわたくしを毒殺しようとしているんですの、おわかりになって?」
 「では、あなたの姪御(めいご)さんのリタは?」
 「あの娘(こ)も別ですの……」
 二月だった。天気は温和で、日が照っている。ときどき、空にただようふんわりとした雲からにわか雨が。しかし、メグレは女客が来てから、これで三度もストーブの火をかき立てた。これは警視庁最後のストーブだった。警視庁にセントラル・ヒーティングが取りつけられたとき、メグレは大変な苦労をしてこのストーブを残しておいてもらったのである。
 女客のミンクの外套の下は、黒い絹のドレスの下は、ジプシーのように耳や、頸(くび)や、手首や、胸など体じゅうにつけられているたくさんの宝石の下は汗だらけにちがいない。そう、彼女は貴婦人というより、ジプシーのように見えた。さきほどまで厚い皮をつくっていたけばけばしい化粧は、いまでは溶けはじめている。
 「要するに、三人の人間があなたを毒殺しようとしているのですね」
 「しようとしているんではありません……すでにはじめているのですの……」
 「それで三人はそのことをおたがいに知らずに行動していると言い張る……」
 「言い張るのではありません、たしかなことなのです……」
 彼女のルーマニア訛(なま)りはコミックな芝居が得意なある有名な女優とおなじだったし、また急に怒りだすところも似ていた。メグレは彼女が怒りだすたびにびくっとなった。

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