メグレ警視シリーズ 23

「メグレと生死不明の男」

ジョルジュ・シムノン/長島良三訳

ドットブック版 137KB/テキストファイル 100KB

500円

プロ中のプロ、アメリカの殺し屋を向こうにまわして闘いをいどむメグレ! その捜査はメグレの長い警察官暮らしのなかでも、もっとも難しいものだった。メグレもふくめて警視庁所属のエリートたちを嫌う第二街警察署所属の「無愛想な刑事」ロニョンが活躍する長編でもある。シムノンのもっとも油の乗り切った時期の作品。

ジュルジュ・シムノン(1903〜89)ベルギーのリエージュ生まれ。16歳で新聞社の通信記者になり、17歳で処女小説を発表。20歳にはパリに出て、多くのペンネームを使って作品を書きまくる。そのなかで一番の当たりをとったのがジョルジュ・シムノン名義の「メグレ・シリーズ」だった。シリーズの処女作「怪盗レトン」は1930年に27歳のときに書かれて大評判となり、以後、メグレ物をほとんど毎月一冊のペースで発表、シリーズは長短78編に達する。1983年には「筆を断つ」を宣言をしてスイスの山中に閉じこもり、話題をまいた。

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「もちろん……もちろんですとも……ええ……わかってます……わかってます……ベストをつくします……そのとおりです……それでは……なんですって?……さよならと言ったのです……侮辱するようなことは何も……では……」
 メグレはたぶん十回目の――その回数をもうおぼえていない――受話器をおき、パイプに火をつけると、窓ガラスの外に降りつづく冷たい長雨を咎(とが)めるようにちらっと見やった。それからペンをつかみ、一時間前からはじめ、まだ半ページも書いていない報告書の上に身をかがめた。
 とにかく、メグレは最初の一言を書きはじめるや、すぐに他のことを考えてしまうのだった。彼は雨のことを考えていた。真冬のきびしい寒さの前ぶれであり、襟首や靴のなかに入り込み、帽子からしたたり落ちるこの特別な雨のことを。鼻風邪をひいて家のなかに閉じこもっている人が、窓ガラス越しに幽霊のように見える、このいやな物悲しい雨のことを。
 こういう雨のときに人々を電話に駆り立てるのは、退屈さなのか? ほとんど絶え間なく鳴る八回から十回の電話のうち有益なのは三つもない。そしていま、またもや電話が鳴った。メグレは受話器を、まるで拳(こぶし)で粉々にうちくだかんばかりの勢いでにらみつけていたが、最後にどなった。
「もしもし?」
「ロニョン夫人が個人的に警視に話したいことがあると言ってますが?」
「だれの奥さんだって?」
「ロニョンですよ」
 このような天候の日に、しかもメグレがすでにいらいらしているときに、電話でとつぜん《無愛想な刑事》という渾名(あだな)の刑事の名前を聞くのはどこか滑稽だった。この刑事はパリ警察のなかでもっとも陰気な男で、ある者からは兇眼〔にらまれた者に災難が起るといわれる〕の持主だと噂されているほどの不運な人間だった。
 しかし、いま電話をかけてきたのはロニョンではなく、ロニョン夫人のほうだった。メグレは彼女にはモンマルトルのコンスタンタン・ペックール広場の住居で一度会ったきりだが、その日以来、もう無愛想な刑事に恨みを抱かなかった。できるだけ避けようとはしつづけたが、心から同情していた。
「つなぎたまえ……もしもし! ロニョン夫人?」
「お邪魔してすみません、警視さん……」
 彼女は立派な教育を受けたということを誇示したがる人間のように、一言一言気取って発音した。メグレは今日が十一月十九日、木曜日であることに気がついた。マントルピースの上の黒い大理石の時計が午前十一時をさしている。
「やむをえない理由(わけ)がありまして、ぜひとも警視さんと個人的にお話したいのですが……」
「もちろん、いいですよ」
「警視さんはわたしたちを――わたしと主人のことをご存知ですわね……」
「ええ、奥さん」
「あなたにぜひとも会う必要があるのです、警視さん。恐ろしいことが起ったのです。わたしはおびえています。からださえぐあいがわるくなければ、パリ警視庁まで走っていきたいのですが、ご存知のように、数年前からわたしはここの六階のベッドで寝たきりなのです」
「ということは、私にそちらに来いということですか?」
「そうおねがいしたいのですが、警視さん」
 おどろくべきことだった。ロニョン夫人はそれをていねいに、だが断乎(だんこ)として言ってのけたのである。
「ご主人は家にいますか?」
「消えました」
「え? ロニョンが消えた? いつから?」
「知りません。オフィスにいないのです。主人がどこにいるのかだれも知りません。今朝、またギャングがやってきました」
「なんですって?」
「ギャングです。ロニョンが怒るかもしれませんが、すべてを警視さんにお話します。わたしはこわくて、こわくてしかたがないのです」
「あなたの家に入ってきた人間がいるというのですか?」
「そうです」
「力ずくで?」
「そうです」
「あなたがそこにいる間に?」
「ええ」
「何かを持ち去りましたか?」
「たぶん書類を。わたしには見えませんでしたが」
「今朝のことですか?」
「三十分前に。でも、他の二人はすでに一昨日やってきたのです」
「ご主人の反応はどうでした?」
「一昨日からまだ会っていないのです」
「そちらに行きます」
 メグレはまだ彼女の話が信じられなかった。あまりにも現実離れがしている。彼は頭を掻(か)くと、パイプを二本選んでポケットにすべり込ませ、刑事部屋のドアを細目に開けた。
「最近、だれもロニョンの話をきかないか?」
 この名前はいつでも微笑をさそった。だれもロニョンの話を聞いていなかった。ロニョン刑事はその激しい望みにもかかわらず、警視庁の殺人課勤務にならず、いまは九区の第二街警察署にいた。彼のオフィスはラ・ロシュフコー通りの警察署のなかにあった。
「私に用事があったら、いまから一時間後にもどるから。階下(した)に車があるか?」
 メグレは厚ぼったいコートを着込むと、中庭にある小型の警察車に乗りこみ、コンスタンタン・ペックール広場の住所を言った。通りも、北駅のガラス張りの屋根の下もにぎやかだった。通行人は車が歩道にはね飛ばした泥水を脚(あし)にうけても平然として歩いている。
 その建物は一世紀前のもので、古びていて見ばえがしない。エレベーターもない。メグレはため息をつきつき、六階まで上った。ドアは、メグレがノックする前に開いた。赤い目と、赤い鼻をしたロニョン夫人が、こうつぶやきながら彼をなかに入れた。
「わざわざおいでいただいて本当に感謝してます! 主人はあなたにとても敬服してますのよ!」
 嘘だった。ロニョンはメグレを憎んでいた。ロニョンはパリ警視庁で働いているすべての人間を、すべての警視を、自分より階級が上のすべての者を憎んでいた。ロニョンは年上の者を憎んでいた。彼らが自分より年上だったからだ。ロニョンは若い者を憎んでいた。彼らが自分より若かったからだ。ロニョンは……

……巻頭より


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