メグレ警視シリーズ

「メグレと消えた死体」

シムノン作/榊原晃三訳

ドットブック 229KB/テキストファイル 105KB

500円

かつてメグレが逮捕したことのある売春婦エルネスティーヌがどんな風の吹きまわしかパリ警視庁を訪れて、メグレに面会を求めた。金庫破りで名を知られた彼女の亭主アルフレッドがパリ郊外のある屋敷に忍び込んだところ、そこで女の死体を見つけたので、何もとらずに逃げ出したというのである。しかも嫌疑を恐れたのかアルフレッドは姿をくらます。メグレはその家を訪れたが、死体は消えていた。しかも、屋敷の持ち主の歯科医とその母親は泥棒に入られたことも完全に否定した……「魂の検査官」メグレの面目躍如の名編。
立ち読みフロア
 事務員が書きこませてメグレにさし出した紙切れには、原文通り言うと次のように書いてあった。

《十七年前にラ・リューヌ通りであなたに逮捕され、あなたをいきり立たせようとして売春を始めた、通称『のっぽ』のエルネスティーヌ(旧姓ミクー、現在はジュショーム)は、ある重大用件について大至急あなたにお話したいことがあります》

 メグレはジョゼフを横目でちらっと見て、彼が紙切れを読んだかどうか知ろうとしたが、この白髪の老衛吏は相変わらず平然としていた。たぶん、この日の朝、司法警察の全部室の中で、シャツの袖をまくり上げていないのは彼だけだったろう。そして、司法警察には何年もいながら初めて、警視は、この丁重に扱って当然と言っていい男に強いて巨大なメダルのついた重い鎖を首からさげさせるのはまちがっているのではないか、と思った。
 ここ数日間、このように、とっぴな疑問がつぎつぎに起きるのだ。これはおそらく土用のせいだったろう。またおそらく、ヴァカンスの雰囲気が物事をごくまじめにとるのを妨げていたのだろう。あちこちの窓は大きく開けられていて、パリの喧噪(けんそう)が部屋の中でうちふるえ、その部屋の中では、ジョゼフが入ってくる前まで、メグレは、ぐるぐるまわって天井のいつも同じ場所にぶつかるスズメバチを目で追うのに気をとられていた。刑事たちは大部分海や田舎へ行っていた。リュカはパナマ帽をかぶっていたが、それは彼の頭の上で地方色ゆたかな山小屋か電気スタンドの笠のような格好をしていた。局長は、例年のように、前夜、ピレネ地方へ出かけて行っていた。
「この女、酔っぱらってるのかね?」とメグレは衛吏にたずねた。
「そうじゃないでしょう。メグレさん」
 ある女たちには、酒を飲みすぎると、警察に密告(たれこみ)をする必要を覚えるということがよくあるからだ。
「ヒステリーかね?」
「長く待たされるのかって、私にききました。あなたがお会いになるかどうかもわからないって答えておきました。あの女は待合室の隅っこに腰をおろして、新聞を読み出しましたよ」
 メグレは、このミクーという名もジュショームという名も、『のっぽ』というあだ名も思い出さなかったが、ちょうど今日のように猛烈に暑くて、舗道のコールタールを靴底にねばつかせ、パリにコールタールのにおいをしみこませるような一日のおかげで、ラ・リューヌ通りというのは確かに覚えがあった。
 それはサン=ドニ門の近くの場末の、いかがわしいホテルと薄焼せんべいやパンケーキを売る店が並んでいるせまい通りだった。彼はそのころはまだ警視になっていなかった。女たちは片前のドレスを着て、髪を首の上で短く切っていた。その娘のことを調べるために、彼はこの界隈(かいわい)の二、三軒の酒場に入らなければならなかったので、たまたまペルノー酒を飲んだ。彼はそのペルノー酒のにおいをほとんど思い出した。その小さなホテルの中にこもっていた腋臭(わきが)と足のにおいを思い出したのと同じだった。その部屋は四階か五階にあった。戸口をまちがえて、彼は最初黒人の男と顔をつき合わせてしまった。その黒人はベッドに腰かけて、アコーデオンを弾いていた。たぶん、ダンス・ホール(ミュゼット)の楽士だろう。黒人は、水をさされた様子もなく、あごでメグレに隣りのドアを示した。
「どうぞ!」
 しゃがれ声。酒を飲みすぎたか、たばこを吸いすぎた人間の声。それから、中庭に面している窓ぎわで、アルコール・ランプの上でカツレツを揚げている空色の部屋着を着たのっぽの娘。
 彼女はメグレと同じくらい背が高かった。いやおそらくメグレより高かったろう。彼女は動ずることなく、メグレのつま先から頭のてっぺんまでじろじろとながめると、すかさず言った。
「あんた、ポリ公ね?」
 メグレはガラスの戸棚の上に財布と紙幣を見つけた。が、娘は少しもひるまなかった。
「やったのは、わたしの相棒だよ」
「何てやつだ?」
「名前は知らないね。リュリュって呼ばれてるけど」
「どこにいる?」
「自分で捜しなさいよ。それがあんたの商売でしょ」
「服を着て、おれについてこい」
 事件は単なる枕捜しにすぎなかったが、警視庁ではある程度重視されていた。それは、盗まれた金がかなりの額だったせいと言うよりもむしろ、被害者がシャラント地方の大家畜商で、彼がすでに選挙区の代議士を動かしにかかっていたからだった。
「あんた、わたしがカツレツを食べるのをじゃましようってんじゃないわね!」
 とてもせまい部屋は椅子を一つ入れる余裕しかなかった。娘が彼のことなどもう初めからいなかったみたいにおかまいなく、ゆっくりと食べている間、メグレはずっと立っていた。
 あのころ、彼女は二十歳くらいの年ごろだったはずだ。生彩のない目で、骨ばった長い顔をしていて、青白かった。それから彼は娘がマッチ棒で歯をせせり、コーヒーにお湯を注ぐのを見た。
「さっき、服を着てくれとたのんだはずだ」
 暑かった。ホテルの中のにおいが彼の胸をむかつかせていた。彼が落ちつかないことを、彼女は見ぬいていたのだろうか?
 彼女はものも言わないで部屋着とシュミーズとパンティをぬぐと、芋虫のように真裸になって、たばこに火をつけながら、乱れたベッドの上に行って横になった。
「おれは待ってるんだぞ!」と彼は、つとめて目をベッドからそらせながら辛抱強く言った。
「わたしもよ」
「逮捕状を持っている」
「あら、そう! じゃ、わたしを逮捕すればいい」
「服を着て、おれについてこい」
「わたしはこうしてたほうがいいのよ」
 おかしな具合だった。娘は、その生彩のない目に小さな皮肉な光を宿しながら、おとなしく、受身に構えていた。
「わたしを逮捕するっていうんでしょ。どうぞ逮捕してちょうだい。でもね、ついでにあんたの手助けしろなんて言わないでちょうだい。わたしは自分ちにいるんだ。暑いでしょ、わたしには真裸になる権利があるわ。このままの格好であんたについてこいって言うんなら、わたしはいっこうにさしつかえないわね」
 少なくとも十回、彼は繰り返した。
「服を着ろ!」
 そしておそらく、彼女が青ざめた肌をしていたので、おそらくは汚れた室内の様子のせいで、彼はこれほど素裸になった女をまだ一度も見たことがないという印象を受けた。ベッドの上に衣服を投げてやっても、彼女をおどかしても、それからいくら説得しようとしても、むだだった。
 結局、彼は階下(した)へおりて行って巡査を二人呼び、そして場面は滑稽(こっけい)なものになった。娘をかけ布団で巻いて、せまい階段を行李(こうり)のように運ばねばならず、その間、彼らの通り道であちこちのドアが開いた。
 それ以来、メグレは彼女に二度と会わなかった。彼女の噂を聞いたこともなかった。

……冒頭より

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