メグレ警視シリーズ

「メグレの途中下車」

ジョルジュ・シムノン作/榊原晃三訳

ドットブック版 118KB/
テキストファイル 105KB

500円

メグレはボルドーで開かれた国際警察会議に出席した。帰りがてら、彼はむかしナントの大学で医学の勉強をしていたときに同じ下宿にいて仲良くなったシャボを訪ねてみようという気になった。シャボはヴァンデ県の小さな町フォントネイで判事をしていた。町はつい最近起きた二件の殺人事件で不安に包まれていた。旧家のあるじの義兄が殺され、ついで一人暮らしのばあさんが殺されたのだ。それは単にそれだけのことでメグレには何の関係もなかった。だが彼が町に着くとすぐに第三の殺人が発生した……メグレは否応なく小さな地方の町の特異な事件に巻き込まれていく。
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 二つの小さな駅――その名前を彼は言えなかったろうし、事実、大きな燈りの前の雨足と荷車をおす何人かの人影以外、暗闇の中にはほとんど何も見えなかった――の間で、とつぜん、メグレは、おれは何をしていたんだろうと自問した。
 たぶん、煖房が熱すぎる車室の中でしばらくうとうとしていたのだろうか? 自分が列車に乗っていることはわかっていたのだから、完全にぐっすり寝こんでいたはずはなかった。列車の単調なひびきも聞いていたし、野の暗いひろがりの中で、一軒家のともしびのともった窓を断続的に見つづけていたとはっきり言えただろう。こうしたことと、彼のぬれた衣服の匂いとまじり合う煤煙の匂いは、依然として現実のものだったし、隣りの車室の声の規則正しいつぶやきも同じだった。そうしたことは、言わば現実味を失い、もはや空間の中に、ことに時間の中にしっかり根をおろしてはいなかった。
 ひょっとすると、どこ行きでもいいから田舎を走るローカル列車に乗って別の場所にいるのかも知れなかったではないか。今乗っているのとまったく同じような普通列車で、機関車に引っぱられるたびに仕切りがきしむ旧式の客車にゆられて、土曜日に中学校から帰る十五歳のメグレであるかも知れなかったろう。そうだったら、夜、駅に停車するごとに、今夜と同じ人声を聞き、今夜貨車のまわりでいそがしく働いているのと同じ人々を見かけ、同じ駅長が吹く笛を耳にするだろう。
 彼は薄目を開けて、消えてしまっているパイプを吸った。視線が車室の向こうの隅に座っている男の上にとまった。この男だって、昔、メグレを父親の家へ運ぶ列車の中にいるのかも知れなかったろう。伯爵か、城館(シャトー)の持ち主か、村あるいはどこかの小さな町の有力者であるかも知れなかったろう。
 男は明るいツイードのゴルフ用の服と、目がとびでるほど高い店でしかお目にかかれないようなレインコートを着ていた。帽子は緑色の狩猟帽で、小さなキジの羽根がリボンの下にさしこんである。暑いのに、淡褐色の手袋をぬいでいなかったが、それはこういう人種は汽車や自動車の中では決して手袋をとらないからだった。それに、こんな雨降りにもかかわらず、男のよく磨いてある靴には泥のしみ一つついていなかった。年は六十五歳にはなっているらしかった。すでに老紳士だった。これくらいの年ごろの男たちが、こんなに風采の細かい点にまで気を配るということは、おかしいではないか? それに、この年でなお、自分を俗衆から目立たせて喜んでいるとは?
 顔色はこうした人種特有のバラ色で、ごましおの小さな口ひげの中に、葉巻でつけられた黄色い輪がのぞいていた。
 ところが、そのまなざしには、持っていて当然の自信がまったくなかった。男は自分の席からメグレに注目していた。メグレもやはり自分の席から、男にちらちらと視線を投げ、二、三度、今にも話しかけそうになったようだった。ちりぢりに分散した光にちりばめられた暗い世界の中で、列車は汚れて雨にぬれながらまた発車し、そして、ときどき、踏切にさしかかると、列車が通りすぎるのを待つ自転車に乗った人間が見わけられた。
 メグレは悲しかったのだろうか? いや、悲しみよりももっと漠然とした感じだった。完全に放心状態だった。第一、この三日間、彼は飲みすぎていた。必要だったから飲んだだけで、酒はうまくなかった。

……第一章「雨中のローカル列車」冒頭

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