メグレ警視シリーズ17

「メグレたてつく」

ジョルジュ・シムノン作/榊原晃三訳

ドットブック 182KB/テキストファイル 100KB

500円

深夜メグレの自宅に若い娘から電話が。地方からパリに出てきて、当てにしていた友人とはぐれ、お金もなく、困り果てているという。メグレはホテルを紹介してやる。ところが翌朝、彼は警視総監から、若い娘を誘惑して酒を飲ませ、ホテルに連れこんだと叱責を受ける。娘は政界の有力者の姪で、パリに住んでいるという。何者かがメグレの失脚をねらってしくんだ罠だった。メグレは背後で糸をひいている人物を探ろうと娘の身辺を調べ始めるが、それがまた総監の怒りを買い、自宅休養を命じられる…メグレは怒りを胸にスキャンダルをぬぐい去ろうと奮闘する。
立ち読みフロア
「ねえ、メグレ……」
 警視がずっとあとから思い出すことになるのだが、言われたときは気にもかからなかった言葉の出だし。なにもかも親しいものだった、室内の装飾も、顔ぶれも、そこにいる人々の身ぶりまでも。それは、リシャール=ルノワール通りから数百メートルのところにあるパルドン家でのことだった。メグレ一家は数年来、月に一度、同家で夕食をとる習慣になっていたのだ。
 そして、やはり月に一度、ドクターとその細君が警視の家に夕食をたべにきていた。二人の細君にとっては、仲よくじっくりと料理の腕を競い合うのに、またとない機会だった。
 そのときも、いつものように、みんながテーブルにつくのに手間どった。パルドンの娘のソランジュは、二度目の妊娠中のため、まるで風船人形みたいで、見苦しい格好で申しわけながっているようだった。彼女は、パリの東の郊外で技師をしている夫がニースで開かれているある会議に出席している間、実家へ二、三日すごしにきたのだった。
 六月だった。日中は暑苦しく、夕方になると夕立がやってきた。開いている窓から、ときどき、二つの黒雲の間に月がちらっと見え、月は一瞬、雲の端を白く縁どった。
 これらの婦人たちは、最初の夕食のときに決められたしきたりに従ってコーヒーを出してしまうと、客間の別の隅へ行って、男たちを二人だけでさし向かいにしてやって、小声で話し合っていた。それは診察待合室で、くたびれた雑誌類が小卓の上に積んであった。
 実は、あるちょっとしたことが他のときとちがっていた。メグレがパイプにたばこをつめて火をつけている間に、パルドンはしばらく診察室に姿を消したが、葉巻の箱を持って戻ってきた。
「メグレ、これはきみにはすすめないよ……」
「ありがとう……今は、葉巻を吸っているのかい?」
 メグレは医師が紙巻より他のものを吸っているところを見たことが一度もなかった。妻のほうをちらっと見てから、パルドンはこうつぶやいた。
「あれが葉巻を吸えと言うんでね」
「肺癌のことが書いてある新聞記事のせいかい?」
「あれはああいう記事にえらくショックを受けてね」
「きみは信じているのか?」
 パルドンが肩をそびやかした。
「たとえぼくが信じたって……」
 それから、小声でこうつけたした。
「それに、本音を言えば……」
 あとはごまかしてしまった。家では、彼は葉巻をおしつけられていたが、葉巻は彼には似合わなかった。だが、家の外では、彼はまるで高校生のように妻の目を欺いて、こっそりと紙巻を吸っていた。
 彼は背は高くなかったし、太ってもいなかった。茶色の髪はごましおになり始めていて、顔には、疲労困憊した一つの人生の跡が刻まれていた。こうした夕べが、病人の苦しい呼び出しも受けず、パルドンがお客のそばをはなれなければならないことを詫びることもなく終ることは、ごくまれだった。
「ねえ、メグレ……」
 彼は躊躇しながら、幾分びくびくしながら、こう言ったのだった。
「われわれはほとんど同い歳にちがいないが……」
「ぼくは五十二だよ……」
 医師はそれを知っていた。彼は警視をいつも診察していたし、警視のカルテも作っていたにちがいないのだから。

「三年したら、定年だ。警察では、五十五になったら、釣りにでも行かされちまう……」
 少々憂鬱な気分だった。二人の男は、窓ぎわで、ときどき一陣の涼気に吹かれながら、空に少しも雷鳴をともなわない稲妻が走るのを認めた。向かい側にある家々で二、三の窓が光り、燈りを消した部屋の窓に肘をついている一人の老人が、二人をじっと見つめているようだった。
「ぼくは四十九だ……これが学生時代なら、三つちがいというのは数になるが……われわれの歳じゃ問題にならない……」
 そのときメグレは、このもの憂い会話がいつか記憶に戻ってこようとは、予想しなかった。彼はパルドンがとても好きだった。いっしょに夕べをすごすのがとてもたのしいという、めずらしい男たちの一人だった。

……第一章より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***