メグレ警視シリーズ19

「メグレと優雅な泥棒」

ジョルジュ・シムノン/榊原晃三訳

ドットブック版 96KB テキストファイル 96KB

500円

冬の凍てつくようなブローニュの森で、頭部を鈍器で何回か殴られて死んだ男の惨殺死体がみつかった。メグレは男に見覚えがあった。はたして、男はキュアンデという名の「優雅な」泥棒であった。検事と判事はこの事件をやくざ同士の喧嘩とみなして重きをおかず、おりから多発していた一連のピストル強盗事件の捜査に全力を傾注するようメグレに言い渡す。だがメグレは不思議な親近感さえおぼえたこの怪盗の過去を洗っていく。「人生の捜査官」メグレの面目躍如の佳編。
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 頭の近くでけたたましい音がして、メグレはがっかりしたように顔をしかめて、片方の腕をシーツのそとで空(くう)をたたきながら動かしはじめた。ベッドの中にいるという意識はあったし、彼より早く目を覚まして、暗がりの中で何も言おうとしないで待っている妻がそばにいることも意識していた。
 そこで彼が思いまちがいをしたのは――少くとも数秒間――そのしつっこく、挑みかかるような、切迫した音の性質についてだった。そして、彼がこんなふうに思いまちがいをするのは、とても寒い気候のせいか、いつもきまって冬だった。
 彼は鳴っているのは目覚時計じゃないかという気がしたのだ。ところが、結婚以来、目覚時計はもうベッドわきのテーブルの上にはなかった。それは青年時代よりもっとずっと以前に、彼が聖歌隊の少年として朝の六時のミサのとき司祭の手伝いをしていた少年時代にさかのぼった。
 と言っても、彼は春にも、夏にも、秋にも、同じミサでお務めをしていたのだった。でも、この彼のなかに残っていて、ときに自動的に甦(よみがえ)ってくる記憶は、なぜ、暗がりや、凍てつく寒さや、かじかんだ手の指や、教会へ行く道で氷の薄皮を踏んできしむ靴などの記憶だったのだろう?
 これはよくあることだが、彼はグラスをひっくり返してしまった。それで、メグレ夫人が枕元の電燈をともした。ちょうどそのとき、メグレの手が電話器にとどいた。
「メグレだが……うん……」
 四時六分過ぎで、外は静か、そうでなくとも冬の寒い夜のこととて、ことに静かだった。
「フュメルです、警視さん……」
「何だって?」
 よく聞こえなかった。まるで相手がハンカチで受話器を包んで話しているみたいだった。
「十六区のフュメルですよ……」
 まるで隣りの部屋にいるだれかに聞かれるのをおそれているように、電話の男は声をおさえた。が、警視の反応がないので、つけくわえた。
「アリスティドです……」
 アリスティド・フュメルか、わかった! メグレは今ではもうすっかり目をさましていて、十六区のフュメル刑事のやつが、なんだって朝の四時におれを起こすんだろうと思った。
 それに、なぜ彼の声は、まるでびくびくしているみたいに、神秘めいてひびいたのだろう?
「あなたに電話していいのかわかりませんが……さっき、直属の上司の署長に知らせましたが……検事局へ電話しろと言われたので、宿直の検事に電話をかけました……」
 メグレ夫人は、夫が電話で返事するのを聞いていただけだったが、すでに起きあがって、つま先でスリッパをさがし、裏地がボワになっている部屋着をはおると、台所へ行った。台所からガスがしゅうと出る音と、つづいて水を湯わかしに注ぐ音が聞こえてきた。
「どうしていいのかよくわからんのですよ、おわかりでしょう? 検事は現場にもどって、おれが行くまで待てって命じました。でも、死体を発見したのは私ではなくて、二人の自転車警官なんです……」
「どこで?」
「え?」
「どこで見つけたかって聞いてるんだ」
「ブローニュの森の……ポト街道で……ごぞんじでしょう?……あの街道はドフィーヌ門の近くのフォルチュネ並木通りに通じています……年輩の男で……私とほとんど同じくらいの年齢です……私に判断できたかぎりでは、ポケットには何も、紙一枚持っていません……もちろん、死体は動かしませんでした……なぜかわかりませんが、何か奇妙なところがあるような気がします。それであなたに電話することにしたのです……検事局の連中には知られないほうがいいんじゃないかと……」
「お礼を言うよ、フュメル……」
「私はこれからすぐ現場にもどります。連中がいつもより早くくるようなことがあるといけませんから……」
「君は今どこにいるんだね?」
「フザンドリの分署です……いらっしゃるおつもりですか?」
 メグレは、あいかわらずベッドのぬくもりの中に埋まって、ちょっとためらった。
「行くよ」
「何ておっしゃいました?」
「行くかどうかまだわからんな。考えて決めるよ」
 彼は屈辱をおぼえ、ほとんど腹を立てていたが、こんなことは半年前から初めてのことではなかった。それに、あの律義なフュメルにはまったく関係なかった。メグレ夫人が、ドアの敷居のところで、メグレに頼んだ。
「あったかくしてってくださいよ。とっても冷えこんでいますから」
 カーテンをあけると、彼は窓ガラスに霧氷の花を見つけた。街燈の柱が異様に光っていたが、こういうふうに見えるのは極寒のときだけだった。そして、リシャール=ルノワール大通りには、人っ子一人通らず、物音一つ聞こえず、向い側のおそらくは病人の部屋にただ一つ明りのともった窓があるきりだった。

……第一章冒頭


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