メグレ警視シリーズ

「メグレと賭博師の死」

ジョルジュ・シムノン作/矢野浩三郎訳

ドットブック版 103KB/テキストファイル 100KB

500円

深夜、パルドン医師を訪れ、名も告げずに立ち去った男女(女は軽傷ながら背中にピストルの弾を受けていた)は、オルリー空港からアムステルダム行きの飛行機に乗ったことがわかった。翌朝、職業的賭博師ナウールの射殺死体が自宅で発見された。家にあった写真から、昨夜の女はナウールの妻エフェリーナと判明した。同行の男はコロンビア人ビセンテ。ナウール家には、ナウールの秘書兼運転手をつとめるウエニが同居している。かつてミス・ヨーロッパに選ばれたことのある美貌の妻エフェリーナ、彼女をめぐる三人の男たちの謎……

ジュルジュ・シムノン(1903〜89)ベルギーのリエージュ生まれ。16歳で新聞社の通信記者になり、17歳で処女小説を発表。20歳にはパリに出て、多くのペンネームを使って作品を書きまくる。そのなかで一番の当たりをとったのがジョルジュ・シムノン名義の「メグレ・シリーズ」だった。シリーズの処女作「怪盗レトン」は1930年に27歳のときに書かれて大評判となり、以後、メグレ物をほとんど毎月一冊のペースで発表、シリーズは長短78編に達する。1983年には「筆を断つ」を宣言をしてスイスの山中に閉じこもり、話題をまいた。

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第一章

 肩をぐいとつかまれたので、身を護(まも)ろうとして必死にもがいた。殴りかえそうともしてみたが、歯痒(はがゆ)いことに腕がいうことをきかない。まるで麻痺したように力が入らないのだった。
「何者だ?」
 そう叫びながら、どうも的(まと)はずれな質問だなと、ぼんやり考えていた。
 ほんとうに声を発したのかどうかはわからない。
「あなた!……電話ですよ……」
 その音は夢のなかでけたたましく鳴り響いたが、とっさにはそれが電話のベルだとわからなかった。自分がいまベッドに寝ていて、どんな夢かは忘れたがとにかく不快な夢を見ていたところを、妻に揺り起こされたのだと気づくまでにしばらくかかった。
 無意識に手をのばして送受器をつかみ、ようやく目を開けると身をおこした。メグレ夫人も温(ぬく)もったベッドの上に坐っていた。枕もとのスタンドが、やわらかく暖かい光を投げかけている。
「もしもし!……」
 夢の中と同じように、あやうく、
「何者だ?」と言いそうになった。
「メグレ?……私だ、パルドンだよ……」
 警視は妻のナイトテーブルの上にのっている目覚ましで時刻を見た。一時半だった。パルドン夫妻とはつい十一時すぎ頃別れたばかりだった。月例の晩餐の日で、今夜のご馳走はマトンの肩肉のフォースミートだった。
「ああ……なんだね……」
「寝入りばなを起こしてしまってすまない……じつは、放ってはおけないようなことが起こってね、それがあなたの領分に属することなので……」
 メグレとパルドン両夫妻はすでに十年以上のつきあいがあり、月に一度はおたがいの家で晩餐をとるほどの間柄だったが、それでも《俺お前》式の口のきき方をすることなぞ考えたこともない。
「なるほど……どんなことかね……」
 電話のむこうの声は、気がかりそうで、すっきりしない。
「こちらに来てもらえないかね……そのほうがよくわかってもらえると思うのだが……」
「まさか事故じゃないだろうね」
 ためらっている。
「いや……そういうわけでもないが、どうも気がかりでね」
「奥さんは大丈夫なんだろうね」
「そう……いまコーヒーを沸かしているところだ。」
 メグレ夫人は良人の受け答えから何があったのかを推量しようとして、もの問いたげな視線を良人の顔にあてていた。
「すぐそっちへ行く……」
 電話を切った。いまはすっかり目が醒めたが、そのかわり心配そうな顔つきになっている。パルドン医師がこんな電話をかけてきたのははじめてであり、それだけによほど深刻な事態にちがいなかった。
「何があったの?」
「わからん……パルドンが私に来てくれと言っている……」
「どうして彼のほうからこっちへ来ないのかしら」
「私が向こうへ行かなければならん理由があるらしい」
「ついさっきは、あんなに楽しそうにしていたのに……。奥さんだって……。娘さんとお婿さんのこととか、こんどの夏旅行することにしているという地中海のバレアレス諸島のことなんかを話していたのよ……」
 メグレは聴いていたのかどうか。そそくさと服を着ながら、医師に電話をかけさせる原因となったことを、われにもあらずあれこれ想いめぐらせていた。
「コーヒーをいれるわ……」
「要(い)らんよ……パルドンの奥さんが沸かしてくれている……」
「タクシーを呼びます?」
「こんな天気じゃ無理だろう。うまくいってもここまで来るのに三十分はかかる」
 今日は一月十四日金曜日で、パリの気温は昼間でもマイナス十二度にさがった。この数日間に降りつづいた大量の雪が除雪不能なほどかたくなっていて、舗道に塩を撒(ま)いているにもかかわらず、路面がかちかちに凍って通行人の足を滑らせた。
「あの厚手の襟巻をするといいわ……」
 夫人が編んだ毛糸のごつい襟巻で、これまでほとんど使う機会がなかったやつだ。
「オーバーシューズも忘れないで……。わたしもいっしょに行ってはいけない?……」
「なんのために?」
 彼女はこんな夜に良人を一人で出すのは嫌だった。パルドン家からの帰り道でも、二人一緒に前方の路面に気をくばりながら用心深く歩いていてさえ、シュマン・ヴェール街の角でメグレは尻餅をついてしまったのだ。彼は面喰ったのと羞恥心とから、しばし起きあがれないでいた。
「大丈夫?」
「ああ……びっくりしただけだ」
 夫人が腕をつかんで助けおこそうとすると、その手を振りはらった。
「二人とも転ぶことになるだけだぞ……」
 夫人は良人を玄関まで送りだし、キスしながらささやいた。
「気をつけて……」
 それから良人が一階に降りるまで、ドアを半開きにしたまま見送った。メグレは先刻転倒したシュマン・ヴェール街を避けることにして、パルドンの住んでいるヴォルテール通りまでリシャール・ルノワール通り沿いに歩いて行くという、いくらか遠廻りの道をとった。
 ゆっくり歩いてゆく。ひっそりして自分の足音以外はなにも聞こえない。タクシーもその他の車も、影も形もなかった。パリじゅうが空っぽになったようだった。これほどの寒さに凍てついた夜は、彼の記憶の中にも二、三度あるかないかである。
 しかしヴォルテール通りに入ると、レピュブリック広場の方向にゆるやかにエンジン音を響かせるトラックの姿が見えて、そのそばで数人の黒い人影が動きまわっていた。車道にシャベルで塩を撒いているのである。
 パルドン家では、二つの窓に灯がついているのが見えた。この家並ではそこだけにしか灯はついていない。カーテンの背後に人影のけはいがあって、メグレが玄関のドアの前に立つと、呼鈴をならす前にドアが開いた。
「また来てもらって悪かったね、メグレ……」
 パルドン医師は晩餐のときとおなじマリン・ブルーの背広を着ていた。
「たいそう微妙な立場になってしまって、どう処置したらいいのか……」
 エレベーター内でメグレは、パルドンの憔悴(しょうすい)した顔つきに目をとめた。

……冒頭より


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