メグレ警視シリーズ

「メグレと口の固い証人たち」

ジョルジュ・シムノン作/長島良三訳

ドットブック版 102KB/テキストファイル 98KB

500円

ガール河岸の今は傾きかけている老舗(しにせ)のビスケット会社。その当主が深夜、自室で胸を撃たれて死んだ。荒れすさんだ広壮な屋敷・事務所に細々と暮らす一族は、だれひとり、銃声を聞かなかったという。メグレは執拗にそのことにこだわった。
立ち読みフロア
 「傘を忘れていないわね?」
 「うん」
ドアが閉まりかかり、メグレはすでに顔を階段のほうに向けていた。
 「マフラーをしていったほうがいいわ」
 夫人はマフラーを取りに走って行ったが、このちょっとした言葉がしばらくメグレを困惑させ、つづいて憂鬱(ゆううつ)な気持にさせたとは思いもしなかった。
 十一月になったばかりで……十一月三日……、まだ特別に寒いというわけではなかった。ただ低い、単調な空から、いつもの雨よりずっと激しい、陰鬱な雨が落ちていた。とくに明け方はひどかった。
 さきほどベッドから出たとき、メグレはしかめ面(つら)をした。頭をまわすと、頸(くび)が痛かったからである。斜頸(しゃけい)というより、肩が凝ったか、大げさに痛んだにすぎないのだろう。
 前日、映画館から出ると、メグレ夫妻は通りを長い間歩いたのである。雨はすでに降っていた。こんなことはすべて重要ではない。しかし、このマフラーのために、夫人が編んでくれたこの厚いマフラーのために、メグレは自分が老人のような感じがするのだろう。
 濡れた足跡がついている階段を降り、傘をさして歩道を歩きながら、メグレは前日夫人がいったことをふたたび考えた。二年後に、メグレは定年退職するのである。
 彼は夫人とそのことをよろこんだ。夫妻は二人が暮らす田舎のこと、二人が好きなムン=シュル・ロワールのことを長い間、のんびりと話し合った。
 走ってきた無帽の少年がメグレを突き飛ばし、詫(わ)びもいわなかった。若い夫婦が腕を組み、一つの傘に入って歩いてきた。二人とも近くの事務所で働いているにちがいない。
 昨日の日曜日はいつもより人気(ひとけ)のない日曜日だった。たぶん今年は万霊祭にあたっていたからだ。今朝はまだ菊のかおりが残っている。メグレ夫妻は昨日、窓から、家族連れが墓地のほうに歩いて行くのを見た。夫妻にはどちらも、パリで死んだ者がいなかった。
 ヴォルテール通りの角でバスを待っていたメグレは、デッキのついていないバスが来るのを見て、いままでよりさらに憂鬱になった。というのは、デッキがなければ立ったままでいることはできないし、パイプを消さざるをえないからだ。
 二年間なんてすぐにすぎてしまう。そうなればメグレはもうマフラーをする必要がなくなるし、今朝のような嫌な雨のなかを、無声映画とおなじ黒と白のパリを横切って行くこともなくなるのだ。
 バスは若い人たちで一杯だった。ある者はメグレのことを知っていたし、ある者はメグレのことを気にもかけなかった。
 オルフェーヴル河岸では、雨はもっと斜めに降り、もっと冷たかった。メグレは司法警察局の円天井の玄関に急いで入った。隙間風が流れ込んできていて、階段のほうに抜けていた。メグレはすぐにこの建物の一種独特な匂いや、つけっぱなしの電灯の青緑色の光を見、あとわずかで毎朝ここに来ることもなくなるのだな、と考えて悲しくなった。
 いわくありげな理由で、定年退職をまぬかれているジョゼフ老人は、共犯者のような様子でメグレに挨拶すると、ささやいた。
 「ラポワント刑事がお待ちかねです、警視さん」

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