メグレ警視シリーズ

「メグレと善良な人たち」

ジョルジュ・シムノン作/小佐井伸二訳

ドットブック 179KB/テキストファイル 86KB

500円

セーヌ左岸、カルチエ・ラタンに近い閑静な住宅街で老人が殺された。すでに事業を退き、一人娘も嫁いで、夫人とともに悠々自適の生活を送っていたこの老人一家のどこに、殺人事件に巻き込まれるような影の部分があったのか? 現場の状況は犯人が被害者とかなり親しい間柄にあることを示していたが、被害者はもちろん、周囲の人物もすべて「善良な」人々ばかりで、メグレには犯人像は浮かんでこなかった。
立ち読みフロア
 夜中に電話が鳴ると、いつもなら暗闇の中で電話を手さぐりしながらぶつぶつ言うくせに、メグレはほっと溜息をもらした。
 やっと脱け出せた夢のことは、もうはっきり憶えていない。しかし、不快な夢だったことはわかる。偉い誰かさんに弁明を試みていたのだ。相手の顔は見えなかったが、彼にたいそう不満なようだった。彼は弁解した、自分が悪いのではない、辛抱してくれるべきだ、たった数日の辛抱でいい、というのも、自分はいつもの自分のようでなく、だるくてぐあいが悪いのだから。信用してほしい、長いことではないのだから。ことに、とがめるような、あるいは皮肉るような顔で自分を見ないでもらいたい……。
「もしもし……」
 彼が受話器を耳に当てているあいだに、メグレ夫人は肘(ひじ)をついて上体を起こすと、枕もとのスタンドをつけた。
「メグレ?」と、相手は訊いた。
 誰の声かはわからなかったが、それでも聞き慣れた声だった。
「サン=チュベールです……」
 ほぼ同年輩の警視で、メグレは彼を駆け出しの時分から知っていた。姓で呼び合う間柄で、《きみ》とか《おれ》では話さなかった。サン=チュベールはやせていて、ひょろ長く、赤毛だった。少しのろまで、勿体(もったい)ぶっていて、細かなことまで説明したがる。
「起こしましたか?」
「ええ」
「申しわけありません。いずれにしろ、オルフェーヴル河岸から知らせの電話が間もなくあると思います。検事局と司法警察には私が急報しましたから」
 メグレは、ベッドに坐ったままナイトテーブルからパイプをつかんだ。寝るときに消したパイプだ。目でマッチを探した。メグレ夫人が起き上がると、暖炉の上のマッチをとった。窓は開いていた、まだ少し暖かいパリ、光が点々とついたパリに向かって。
 遠くにタクシーの通る音が聞こえた。夫妻がヴァカンスから戻って五日になるが、こんなぐあいに起こされるのははじめてだった。メグレにとっては、現実との、仕事との接触がまたはじまったというわけだ。
「それで」と、パイプを吸いこみながら彼はつぶやいた。夫人が火のついたマッチをパイプの火皿の上にかざしている。
「ルネ・ジョスラン氏のアパルトマンにいます。ノートルダム=デ=シャン通り三十七番地、《貧民救済会》女子修道院のすぐそばです……。犯罪が発見されたのですが、私は大したことは知りません。やっと二十分ばかり前に着いたところですから……。聞こえますか?……」
「ええ……」
 メグレ夫人はコーヒーを用意しに台所へ立った。メグレは、頼むという目くばせを彼女に送った。
「事件はやっかいなようです。どうも微妙です……。それで失礼ながら電話をしたわけで……。当直の刑事を一人よこすだけで十分だと考えられては困るので……」
 彼は言葉をえらんでいた。それで、部屋にひとりだけでないことが読みとれた。
「最近、夏の休暇をとっていらしたとか」
「先週、帰ってきたんです」
 今日は水曜日。より正確に言えば木曜だった。メグレ夫人のナイトテーブルの目覚ましが二時十分を指していたから。二人は一緒に映画に行ってきた。さほど面白くもない映画を見るというより、いつもの生活を取り戻すために。
「来ていただけますか?」
「着替えたら」
「私としては、来ていただければ感謝します。じつはジョスラン家は少しばかり知っています。ここで惨劇が演じられるとは予想もできない人たちで……」
 たばこの匂いさえ仕事の匂いだった。前の晩に消し、真夜中、緊急の用で起こされてまた火をつけるパイプの匂いだ。コーヒーの香りも、朝のコーヒーのとはちがっていた。また、開けてある窓から入ってくるガソリンの匂いも……。
 この一週間、メグレはぬかるみを歩いているような気がしていた。夫妻は、今度はマン=シュル=ロワールにまるまる三週間いたのだった。司法警察局とはどんな接触もなく、ほかの年にはあったように、急な事件でパリに呼び戻されることもなく。
 二人は家と庭の手入れを続けた。メグレは釣りをし、土地の連中とブロット・カードをやった。それで、帰ってきても、いつもの生活にうまく戻れなかった。
 パリもいつものパリではなかった。ヴァカンス明けの雨も涼しさも、そこにはなかった。大きな観光バスが、通りで、色とりどりのシャツを着た外国人をあいかわらず引っぱり回していた。パリの人たちの多くは戻ってはきたものの、まだ満員の列車で出かけてゆく連中がいた。
 司法警察やオフィスがメグレにはいささか現実ばなれしてみえて、ときには、自分はここで何をしているのかと自問することがあった。まるで、本物の生活が、あちら、ロワール川の岸にあるかのようなのだ。
 おそらく、この居心地の悪さから例の夢はきていたが、その細部を思い出そうとしても無駄だった。メグレ夫人は熱いコーヒーを一杯持って台所から戻ってくると、すぐにわかった、夫は、この乱暴な起こされ方を怒るどころか、それで元気を取り戻しているのだ。
「どこなの?」
「モンパルナスだ……。ノートルダム=デ=シャン通り……」
 ワイシャツとズボンは着けていた。靴の紐を結んでいると、また電話が鳴った。今度は司法警察からだった。
「こちらトランスです、警視(パトロン)……。たったいま知らせが……」
「男がひとり殺された、ノートルダム=デ=シャン通りで……」
「ご存知でしたか? 行きますか?」
「オフィスには誰がいる?」
「デュプーがいます。宝石泥棒事件の容疑者に尋問の最中です。それからヴァシェが……。待ってください……ラポワントが戻りました、ちょうどいま……」
「彼に言ってくれ、あっちでおれを待つように……」
 ジャンヴィエはヴァカンス中だった。昨日帰ってきたリュカはまだ《河岸》の仕事についていない。
「タクシーを呼びますか?」と、しばらくしてメグレ夫人が尋ねた。
 下で、彼を知っている運転手に出会った。今夜は、それが嬉しかった。
「どこへやります、警視?」
 番地を告げ、新しいパイプに葉をつめた。ノートルダム=デ=シャン通りで、司法警察の黒の小型車が目に入った。ラポワントは、歩道に立って、警官としゃべりながらたばこをふかしている。
「四階です」警官は告げた。
 メグレとラポワントは、金持ちの住む、手入れのゆき届いた建物の戸口をくぐった。管理人室には明りが見えた。紗(しゃ)のカーテンごしに警視が見たのは、たしかに六区の刑事だった。管理人に聞き込みをしている。
 エレベーターが止まるや、ひとつのドアが開き、サン=チュベールが出てきて二人を迎えた。
「検事局からはまだ三十分は来ません……。お入りください……あえて電話したわけがおわかりですから……」
 彼らは広い玄関の間に入り、それから、サン=チュベールが半開きのドアを押した。静かな居間が目に入った。革の肘掛椅子に倒れ込んでいる男の屍体のほかに、誰もいなかった。かなり背が高く、相当に太っている。自分のからだにうずまり、頭は、目を開けたまま横に垂れていた。
「家族には、別の部屋に引っこんでくれるように言いました……。ジョスラン夫人は、かかりつけのラリュー医師に任せてあります。たまたま私の友人のひとりなんですが……」
「夫人は怪我をしたんですか?」
「いいえ。惨劇が演じられたときは留守でした。これまで私が知ったことをかいつまんでお話します」
「このアパルトマンは誰が住んでいるんです? 何人いるんです?」
「二人……」
「家族という意味で……」
「つまりこうです……。娘が結婚してからは、ジョスラン夫妻はここに二人きりで住んでいます……。彼女は若い医師と結婚しました。小児科のファーブル医師で、《小児科病院》のバロン教授の助手をしています……」
 ラポワントはメモをとっていた。
「ゆうべ、ジョスラン夫人と娘はマドレーヌ劇場へ行きました……」
「で、亭主たちは?」
「ルネ・ジョスランはしばらく一人きりでした」
「芝居は好きでなかったんですか?」
「知りません。私が思うのに、夜は外出したがらなかったんじゃないでしょうか」
「何をやっていたんです?」
「この二年間、何も。以前は、サン=ゴタール通りにボール紙工場を持っていました。ボール箱の製造です。ことに、香水商むけの高級品を……。健康が理由で仕事をやめています……」
「年齢(とし)は?」
「六十五か六……。ゆうべはそんなわけで一人でした……。あとで婿がやって来ました、時刻はわかりませんが。で、二人はチェスをして……」
 事実、小さなテーブルの上にはチェスが見えた。駒は、勝負が中断されたようなぐあいに並んでいる。

……冒頭より

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