「ABC殺人事件」

アガサ・クリスティ/能島武文訳

ドットブック版 213KB/テキストファイル 167KB

500円

ABCというイニシャルを記したいたずらのような手紙が探偵ポワロのところに届く。だが彼の不吉な予感どおり、アンドーバー(A)でタバコ屋の老婆アリス(A)が殺害される。勝ち誇るかのように第二の手紙はベクスヒル(B)での事件を予告し、カフェの給仕女ベッティ(B)の死体が海岸で見つかる。図に乗った犯人はチャーストン(C)での殺人を予告、ポワロや警察を嘲笑うかのようにカーマイケル卿(C)を殺害する。そして次はドンカスター(D)だ…すべての死体のかたわらにはABC社の時刻表が。無差別殺人を趣味とし、ポワロに特別な恨みをもつ者のしわざなのか? 灰色の頭脳は悩みに悩む。脂の乗りきった時期のクリスティの傑作。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
 一九三五年の六月のことであったが、わたしは、南アメリカの自分の農場から、約六か月の滞在の予定で、故郷に帰って来た。当時は、南アメリカでも、わたしたちには、困難な時代だった。ほかのどの人たちとも同じように、わたしたちも世界的な不況に悩まされていた。イギリスには、わたし自身が手をつけなければ、うまくゆきそうにもないと思う用事が、いろいろとあった。農場の管理のためには、妻が残ることになった。
 イギリスに着いて、最初に、わたしがしたことのひとつは、旧友のエルキュール・ポワロを訪(たず)ねることであったということは、ことさら、いう必要もないだろう。
 かれは、ロンドンの、最新型のアパートのひとつにおさまっていた。わたしは、非難めかしく、(いや、かれもその事実を認めたが)この特別な建物をえらんだのは、まったく、この建物の厳密な幾何学的な外観と、大きさの比率のせいだろう、といった。
「だけどね、うん、きみ、じつに気持ちよく均斉(きんせい)がとれている、とは思わないかい?」
 わたしは、どうもすこし四角張りすぎているように思うといった。そして、それとなく古い洒落(しゃれ)を持ち出して、この超モダーンな邸宅では、牝鶏(めんどり)に四角な卵をうませられそうじゃないか、といった。
 ポワロは、心からおもしろそうに、大声で笑った。
「ああ、きみは、まだあんなことをおぼえているんだね? やれやれ! とんでもない――科学は、まだ牝鶏を現代の趣味に適合させることに成功してはいないのさ。あいもかわらず、牝鶏どもは、大きさや色のちがう卵をうんでいるよ!」
 わたしは、親愛の気持ちをこめた目で、じっと旧友を見た。かれは、すばらしく元気そうな様子で――ほとんど、この前に会った時から、すこしも年をとっていないように見えた。
「きみは、まったく元気いっぱいらしいね、ポワロ」と、わたしはいった。「ほとんど、すこしも年をとっていないじゃないか。まったくのところ、そういうことがありうるとしての話だが、この前に会った時よりも、白髪(しらが)がすくなくなったといってもいいくらいだね」
 ポワロは、にっこり、わたしを見て笑った。
「しかし、どうして、そんなことがありうることじゃないというのかね? まったく、ほんとうなんだよ」
「というと、きみの髪が黒から灰色に変わらないで、灰色から黒に変わったというのかい?」
「まさに、そのとおりだよ」
「だけど、そんなことは、まったく科学的に不可能だよ!」
「どういたしまして」
「しかし、そりゃ、ひどく妙だね。自然の法則に反しているようじゃないか」
「あいかわらず、ヘイスティングズ、きみは、人を疑わない、美しい心を持っているんだね。年月も、きみのその心を変えないんだね! きみは、自分では、そんなことをしているとは気がつかずに、一つの事実を見ると、ほとんど同時に、その解答を口にするんだね!」
 わたしは、すっかりとほうにくれて、かれを見つめた。
 ひと言もいわずに、かれは、寝室へ足を運んで行ったと思うと、瓶(びん)を一つ、手にしてもどって来て、わたしに渡した。
 わたしは、なんのことやらわからないまま、その瓶を受けとった。
 瓶には、こう書いてあった。

 ルヴィヴィ――毛髪に自然の色合(いろあい)を持ち来たす。ルヴィヴィは、染料にあらず。灰色、栗色(くりいろ)、赤黄色(チチアン)、褐色(かっしょく)、黒色の、五種の色調に生かす。

「ポワロ」と、わたしは、叫ぶようにいった。「きみは、髪を染めているんだね!」
「ああ、やっと、きみにもわかったようだね!」
「すると、それで、この前に、ぼくが帰って来た時よりも、きみの髪がずっと黒く見えるというわけなんだね」
「まったく、そのとおり」
「やれやれ」と、わたしは、驚きから立ちなおって、いった。「じゃ、このつぎ帰って来たら、つけひげをつけているきみにお目にかかるのじゃないかな――それとも、もうつけているのじゃないのかい?」
 ポワロは、がっかりした顔をした。かれの口ひげは、いつも、かれが気にしている急所で、おそろしく自慢にしていた。つまり、わたしの言葉が、その痛いところに触れたわけだ。
「いや、いや、とんでもない、あなた(モナミ)。そんな日は、まだまだ、ずっと先のことに願いたいですね。つけひげなんて! なんて恐ろしいことを!」
 かれは、本物だということを示すために、勢いよく、そのひげを引っぱってみせた。
「なるほど、まだなかなかたっぷりしているね」と、わたしはいった。
「だろう? ロンドンじゅうを捜したって、わたしのに匹敵するほどの口ひげには、お目にかかったことがないんですからね」
 そいつはまた、いい気なもんだ、と、わたしは、ひそかに思った。しかし、そんなことをいって、ポワロの気持ちを傷つけようなどと、けっして、わたしは思わなかった。
 その代りに、いまでもまだ、時々は、元の仕事をしているのかとたずねてみた。
「そうだったね」と、わたしは、「きみは、何年か前に、まったく引退して――」
「そうさ。カボチャをつくるためにね! ところが、たちまち殺人事件が起こってね――おかげで、カボチャどもには滅亡への行進をさせてしまったというわけさ。それで、それからというものは――きみがなんというか、よくわかるがね――わたしは、確かに引退興行をやっているプリマ・ドンナのようなものでね! その引退興行ときたら、何度でも無限に繰り返されるんだ!」
 わたしは、大声で笑った。
「実際、まったくそのとおりなんだから。そのたびに、わたしはいうんだ、これが最後だ、と。ところが、だめ、ほかのやつが起こるんだ! だからね、わたしは認めるよ、きみ、わたしは、まるきり引退なんてことを望んでいないんだ、と。もしも、この小さな灰色の細胞を働かせていないと、錆(さ)びついてしまうからね」
「なるほど」と、わたしはいった。「適当に、運動させるというわけだね」
「そのとおり。なんでもいいというわけじゃない。より好みをするのさ。このごろのエルキュール・ポワロには、犯罪の精髄ともいうべきものだけしか、意味はないのさ」
「その精髄というやつが、たくさんあったのかね?」
「かなりあったね。ついこの間なんか、きわどいところで命びろいをしたよ」
「しくじったのかい?」
「いや、とんでもない」ポワロは、ぞっとした顔つきで、「しかし、わたしが――この、エルキュール・ポワロが、あやうく完全にやっつけられるところだったよ」
 わたしは、ひゅうと口笛をならした。
「大胆な犯人だね!」
「それほどひどく大胆というのじゃない、無謀なんだな」と、ポワロはいった。「まったく、そう、――無謀だ。だが、その話はよそう。それよりも、ねえ、ヘイスティングズ、いろいろな点で、わたしは、きみを、わたしのマスコットと思っているんだぜ」
「ほんとかい?」と、わたしはいった。「どんな点で?」
 ポワロは、直接には、わたしの問いにはこたえなかった。かれは、話をつづけた。
「きみが帰って来るということを聞くとすぐに、わたしは、ひとり言をいったものだ。なにか起こるんだな、と。また以前のように、いっしょに捜査しようじゃないか、われわれ二人で。しかし、やるのなら、平凡な事件じゃいけない。なにか、ぜひ」――かれは、興奮して、両手を振りながら――「なにか、趣向をこらした――微妙な――手のこんだ(フイーヌ)やつでないと……」と、このフイーヌという、最後の翻訳しにくい言葉に、いっぱいに味をつけるようにして、いった。
「これはこれは、驚いたね、ポワロ」と、わたしはいった。「人が聞いたら、まるで、リッツで晩めしを注文でもしていると思うだろうね」
「犯罪というものは、注文するわけにはいかないのにか? まったく、そのとおりだ」かれは、ため息をついて、「しかし、わたしは、運を信じるよ――運命といってもいいがね。わたしのそばについていて、わたしが許しがたい誤りを犯さないようにしてくれるのが、きみの運命なのだ」
「いったい、許しがたい誤りというのは、なにをいうんだね?」
「明白なものを見のがすことさ」
 わたしは、それを胸の中で繰り返してみたが、その要点はわからなかった。
「ところで」と、やがて、わたしは、にっこりしながら、「そのとびきりの犯罪というやつは、もうはじまってるのかい?」
「まだだ。すくなくとも――というのは――」
 かれは、口をつぐんだ。その額(ひたい)には、困ったような皺(しわ)が深くなった。その両手は、わたしがうっかりして押しまげた物を、ただ機械的に伸ばしているようだった。
「はっきり、わからないんだ」と、かれは、ゆっくりといった。
 その調子には、ひどく妙な響きがあったので、わたしは、驚いて、かれの顔を見た。
 皺は、まだ消えてはいなかった。
 と、いきなり決心したように軽くうなずいて、かれは、部屋(へや)を突っ切って、窓ぎわの机のところへ行った。机の中の物は、みんな、きちんと整理して、それぞれ一括されていたから、すぐに、必要な物が取り出せるようになっていたなどとは、いまさら事新しく、いう必要もないだろう。
 かれは、一通の開封した手紙を片手にして、ゆっくり、わたしのところへもどって来た。かれは、もう一度、それを読み返してから、わたしに手渡した。
「ねえ、あなた(モナミ)」と、かれはいった。「きみは、これをどう思うかね?」
 わたしは、ある興味を持って、それを受けとった。
 それは、厚手の白い便箋(びんせん)に、活字体で書かれていた。

 エルキュール・ポワロ氏よ――きみは、哀れむべき鈍物(どんぶつ)の、わがイギリス警察がもてあますような難事件を解決するのは、自分だと、うぬぼれているのじゃないだろうね? 明敏なるポワロ氏よ、きみの明敏のほどを見せてもらいたいものだ。おそらく、この胡桃(くるみ)は、くだくには固すぎるということに気がつくにちがいない。今月の二十一日、アンドーバーを警戒したまえ。草々。
A・B・C

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