クリスティ犯罪・怪奇傑作集

「事故」

アガサ・クリスティ/河野一郎他訳

ドットブック版 117KB/テキストファイル 62KB

280円

クリスティの犯罪もの2編(「うぐいす荘」「事故」)と怪奇もの2編(「最後の降霊会」「第四の男」)を集めた傑作集。
 
アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。
立ち読みフロア
「いってらっしゃい」
「ああ、いってくるよ」
 アリックス・マーチンは、小さな鄙(ひな)びた木戸によりかかり、村の方へ小径を遠ざかって行く夫のうしろ姿を見送っていた。やがて夫は曲り角をまがって見えなくなってしまったが、アリックスは顔にほつれかかる栗色の髪をぼんやりなでつけながら、うっとりと夢みるような眼差しで、いつまでも木戸のところに立っていた。
 アリックス・マーチンは決して美人ではなく、またはっきり言って、可憐(かれん)でもなかった。しかしその顔は――もはやういういしい若さこそ消えてはいたが――昔のオフィス時代の同僚も見ちがえるほど、あかるく、なごやいでいた。結婚前のアリックスは、身ぎれいな働き者で、てきぱきと仕事を片づけ、いくらか態度に無愛想なところはあったが、見るからに有能で、実際的な娘だった。せっかくの美しい栗色の髪も、まったくかまわず、放ったらかしのまま、口元も、それほど不恰好ではないのだが、いつもへの字に固く結んでいた。着ているものも、小ざっぱりとした分相応なもので、なまめかしさは薬にしたくも見られなかった。
 アリックスは、逆境を経験してきていた。十八の年から三十三までの十五年間、速記タイピストとして自活し、そのうち七年間は、病床についた母親をも養っていたのだ。その娘らしい顔のやさしい線をこわばらせてしまったのは、生きんがための闘いだった。
 もちろん彼女にも、ロマンスめいたものはあった。相手は、同じオフィスに働くディック・ウィンディフォードだった。根は非常に女らしかったアリックスは、素振りにこそ見せなかったが、彼が思いを寄せていることは前々から知っていた。しかし、表立っては、ふたりはただの同僚でしかなかった。ディックはその乏しい給料の中から、弟の学資を出しており、とてもまだ、結婚などは考えられなかったのだ。しかし、それでもアリックスは、自分の将来を思うとき、いつかはディックの妻になることを、なかば当然のことと考えていた。たがいに愛しあってはいるのだが、どちらも分別のある同士ゆえ、口に出して言わないだけなのだと彼女はそうひとりで解釈していた。まだまだ時間はあることだし、なにもあわてることはない……。こうして歳月は過ぎ去っていった。
 ところが、そうしたところへ降ってわいたように、毎日のつらい勤めから解放される幸運が訪れてきた。遠いいとこが死んで、アリックスに金を遺してくれたのだ――額は数千ポンドであったが、年に二百ポンドの利子が約束されていた。アリックスにとっては、それは仕事からの解放と、人なみな生活と、独立を意味した。もはやふたりは、時機を待つ必要もなかった。
 だがディックは、思いがけない態度に出てきた。彼はそれまでも、はっきりと愛情を打ち明けたことはなかったが、事がこうなってからは、前よりもいっそう気乗り薄になったように見えた。アリックスを避け、気むずかしくふさぎこんでしまった。彼女はいち早くそのことに気づいた。彼女が急に資産家になってしまったからなのだ。きっと気がねと、男としての誇りに邪魔をされて、今さら妻になってくれとは言い出しにくいのにちがいない。
 しかし、アリックスの方の気持には変りがなかったし、こうなっては、女の自分の方から話を持ち出してみようかとまで考えていたところへ、ふたたび思いがけない運命がふりかかってきた。
 とある友人の家で、ジェラルド・マーチンに会ったのである。ジェラルドはすっかり彼女に首ったけとなり、挙句にふたりは、一週間とたたぬうちに婚約をかわしてしまった。自分だけは、決して「一目惚(ぼ)れをするような女」ではないと思っていたはずの彼女が、すっかりのぼせ上ってしまったのだ。
 知らずしらず、彼女は煮え切らぬ以前の恋人の気持を、かき立てることになった。ディックは憤りのあまり、満足に口も利けないありさまで、彼女につめ寄ってきた。
「あの男は、まるで見ず知らずなんだろう? 素姓だって、知れちゃいないじゃないか!」
「愛してることだけはわかっててよ」
「どうしてそんなことがわかるんだい?――一週間ぐらいで」
「愛しているかどうかぐらい、十一年もかけなくたって、わかるのが当たり前じゃないかしら」とアリックスは腹立ちまぎれに嫌味を言った。
 ディックは顔色を変えた。
「ぼくは初めて会ったときから、きみが好きだったんだ。きみもぼくのことを愛してくれてるとばかり思ってたよ」
 アリックスは正直に打ち明けた。
「あたしもそう思っていたわ。でもそれは、あたしがまだ愛情というものを本当に知らなかったからよ」
 それを聞くと、ディックはまた色をなし、すがらんばかり、泣きつかんばかりに懇願し、はては脅迫まで――自分を出し抜いた男に対する脅迫までしてきた。すっかり知りつくしているつもりだった男の、落ち着いた外貌の一枚下に、これほど激しい気性がひそんでいるのを見て、アリックスは驚いてしまった。いささか怖ろしくさえあった……。もちろん、ディックが本気で言ったとは考えられなかった。復讐をしてやるなどと脅しはしたが、おそらくは怒りにまかせて口走ったにすぎないのだろう……。
 いまこのうららかに晴れた朝、木戸によりかかりながら、彼女はディックと喧嘩わかれになったあの時のことを思い出すのだった。すでに結婚して一カ月、彼女は牧歌的な幸福感にひたっていた。しかし、大事な夫を送り出すと、ふとまた一抹の不安が、彼女の瑕(きず)ひとつない幸福感の中に忍びこんできた。その不安の原因は、ディック・ウィンディフォードであった。


……「うぐいす荘」巻頭より

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