「アクロイド殺人事件」

アガサ・クリスティ/松本恵子訳

ドットブック版 191KB/テキストファイル 163KB

600円

小さな村の名士アクロイド氏は、書斎の椅子で何者かによって刺殺されていた。そして空色の封筒に入っていた謎の手紙が消えていた。叔父の死にショックを受けた姪のフロラはたまたま余生をその村で過ごそうとしていたポワロに事件の解明を依頼した。ポワロは言った。「いったんお引き受けした以上は、最後までやりとげなければ止みません。たとえ途中で警察に一任しておく方が無難だとお考えになるような事態にいたりましてもですぞ。よい猟犬というものは決して追跡を途中で放棄するようなことはいたしません」……ミステリーの女王の名を不朽のものとしたクリスティの記念碑的作品。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
 フェラス夫人が死んだのは九月十六日と十七日のあいだ……木曜日の夜であった。私が呼ばれたのは金曜日の朝で、その時はもう死後数時間たっていたから、何とも手の下しようがなかった。
 私が再びわが家に帰ったのは、午前九時すこしすぎていた。私は合鍵(あいかぎ)で表戸をあけて入った。
 玄関でわざとひまどって帽子をかけたり、秋の朝寒(あさざむ)にそなえて持って出たオーバーをかけたりして、ぐずぐずしていた。はっきりいうと私はひどく気が顛倒(てんとう)していて、何ともいえない重い気分であった。といっても、私はそれから数週間にわたって起こるはずの事件について、何か予知していたというのではなかった。しかし私は本能的に、何かの異変が目前にせまっていることを感じていたのである。
 左手の食堂から、姉のカロリンが、「ジェームズ、あなたなの?」と声をかけた。
 聞かでものことだ。私にきまっている。実をいうと私がぐずぐずしていたのも、この姉のためである。キップリングの言葉に従えば、ねこいたち(・・・・・)族の標語は『行け! しかして探しだせ!』
 というのだそうだ。もし、姉カロリンを動物に見立てるとしたら、まさにこのねこいたち(・・・・・)族である。もっともカロリンの場合には、この標語の前半はあてはまらない。彼女は家にじっとすわっていながら、知りたいだけのことは何でも探り出すのである。おそらく女中や出入りの商人たちが、姉の情報局員を勤めているのかもしれない。姉が外出するのは、情報をあつめるためではなく、家にいて手に入れた情報を撤(ま)きちらすためである。
 私が家へ帰ってすぐに姉と顔を合わせるのをためらったのも、実は姉のそういった性癖(せいへき)に怖れをなしていたからである。フェラス夫人の死に関して、私の唇を洩れる一言一句は、一時間半とたたないうちに、村中に撒きちらされてしまうであろう。
 フェラス夫人の夫は一年前に死亡した。それについて姉は、何の根拠もないのに、夫人が夫を毒殺したのだと主張している。姉はフェラス氏が飲酒過多の結果、急性胃炎を起こして死亡したという私の答を、いつも冷笑している。砒素中毒と胃炎とは、その徴候がほとんど同じである点には、私も同感であるが、姉は私とぜんぜん違った角度から、フェラス氏の死を考察していた。
 かつて姉はこんなこともいった。
「夫人の顔を一目みたらわかるじゃないの」
 フェラス夫人は盛りはすぎたが、まだうば桜とはいいきれない、非常な美人で、いつもパリ仕立ての清楚(せいそ)な服装をしているので、いっそう上品に見えた。だが、世間にはパリから流行の衣装を取りよせる婦人はいくらもあるので、それをもって彼女たちが夫を毒殺する理由とはならない。
「ジェームズ、そんなところでいつまでも何をしているの? なぜ早く来て朝ごはんを食べないの?」
「姉(ねえ)さん、いますぐ行きます。オーバーをかけているところですよ」
「オーバーを半ダースもかけるくらいの暇(ひま)がかかっているじゃないの!」
 私は食堂へ入って行って、卵とベーコンの皿の前にすわった。べーコンはもう冷めていた。
「今朝はずいぶん早かったのね」と姉が口を開いた。
「ええ、キングス・パドック荘へ行ったんです。フェラス夫人のところへ!」
「それは知っていますよ」
「どうしてご存じなんです?」
「アンニーから聞きました」
 アンニーは女中である。いい娘だが、少しお喋(しゃ)べりである。
 姉は細い鼻の先をかすかにふるわせている。これは姉が何かに興味を持った場合とか、ひどく興奮した時の徴候である。
「もう手おくれでした。たぶん睡眠中に死んだのだろうと思います」
「そんなことは知っていますよ」と姉はいった。私はむっとして、
「姉さんが知っていらっしゃるはずはないではありませんか。私はまだ誰にも話していませんよ」
「牛乳配達に聞いたんです。フェラス家の料理人から聞いたんだそうよ。どうして死んだの? 心臓麻痺?」
「牛乳配達からお聞きにならなかったのですか?」私は皮肉をいったが、それは無駄であった。
「牛乳配達は知りませんでしたのよ」と姉はまじめに答えた。
 とにかく姉は、遅かれ早かれ聞きださずにはおかないから、私の口から彼女の耳に入れても同じことである。
「夫人はベロナールの飲みすぎです。近ごろ不眠症にかかって、べロナールを用いていましたから、おそらく分量を間違えたのでしょう」
「そんなことがあるものですか。あの人は自分から分量を増して飲んだんですよ」
「姉さんは何の理由もなく、またしてもそんなことをおっしゃる。フェラス夫人が自殺する理由がどこにあります? 財産はあり、未亡人といっても、まだあの若さで何の不足がありましょう」
「どういたしまして、あなただって、近ごろどんなに夫人のようすが変ったか、気がついたでしょう。夫人のようすが変ったのは、六か月このかたですよ。急にやつれが見えて来たではありませんか。それにあなただって、たったいま、夫人が不眠症にかかっていたといったでしょう」
「で、姉さんの診断はどうだとおっしゃるのです。不幸な恋愛の結果ですか?」私は冷やかにいった。
 姉は頭をふった。
「後悔!」姉はこきみよげに、ずばりといった
「後悔ですって?」
「そうですとも。あの人が夫を毒殺したといっても、あなたは信じませんでしたね。私は今になって、いよいよ私の説が確実だということがわかりましたのよ」
「姉さんの説は論理的ではありませんね。殺人をやるぐらいの女だったら、後悔なんてするもんですか」
「そういう女もあるかもしれませんが、フェラス夫人は違いますよ。夫人は苦痛をしのぶことのできない女だったから、一時の感情にかられて、夫を殺してしまったんです。フェラスのような男を夫に持った女は、きっといろいろと苦痛があったに違いありません。だから、あの人が自分のしたことを後悔して、悩んでいたことは同情できるのよ」
 私は、姉の言葉のある部分に同感していただけに、かえって激しく反駁(はんばく)したが、姉は平気で自分の想像にふけっていた。

 ……冒頭より

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