「三幕の殺人」

アガサ・クリスティ/赤冬子訳

ドットブック版 196KB/テキストファイル 158KB

500円

ダンディな元舞台俳優が海辺の邸宅で催したパーティで、招かれた土地の牧師がカクテルを飲んだとたんに急死した。招待客の一人だったポワロにも、それが「事件」とは思われなかった。だが悲劇には第二幕が待ち受けていた。まったく同じような状況での同じような急死……灰色の脳細胞が活動を開始する。クリスティ中期の代表作。
立ち読みフロア
 サタスウェイト氏は烏荘(クロウズ・ネスト)のテラスに腰をおろして、この家の主人(あるじ)、チャールズ・カートライト卿(きょう)が海岸から通じる小径(こみち)をのぼってくるのをじっと見おろしていた。
 烏荘(クロウズ・ネスト)はかなりよい部類の近代的なバンガローである。横木もなければ破風(はふ)もなく、三流どころの建築屋の心にうったえるような余計なものは何一つついていない。それはすっきりと白い、頑丈そうな建物で、実際はみかけよりはるかに大きかった。そしてルーマスの港を一望に見わたせる高い位置にあるためにこの名がついていた。事実、テラスの一端には欄干(らんかん)がしつらえてあって、その下は海まで垂直にきり立っていた。ちゃんとした道を通れば烏荘(クロウズ・ネスト)は町から一マイルほどはある。道はいったん内陸へ向かって伸びてから、海を望む高みまでつづら折りに曲っていた。徒歩なら、漁師の通る細い急坂を上ってくるのが近道で七分とはかからない。今しもチャールズ・カートライト卿がのぼってくるその小径である。
 チャールズ・カートライト卿は体格のよい、陽やけした中年の男だった。古びた灰色のフランネルのズボンに白いスウェーターを着ている。幾分からだをゆするような足どりで、両の手は軽く握っている。十人の中(うち)、九人までが、「海軍の退役軍人――まさにあのタイプだ」という。もう少し鑑識眼のある十人目は少しためらう。どこか本物らしくないふしがあって迷うのだ。そのうちに、おのずとある一つの光景が目に浮かんでくる。船の甲板――ただし本物の船ではない、厚地の豪奢(ごうしゃ)なカーテンに半ばかくれた船だ。そのデッキに立っているひとりの男、チャールズ・カートライト。彼の上にふりそそぐ人工の光、軽く握られた両のこぶし、かろやかな足どり、そして声 ―― イギリスの船乗りかつ紳士(ジェントルマン)のあのきさくなあかるい声、それがいちじるしく誇張されて響く。
「いいえ」チャールズ・カートライトが喋(しゃべ)っている、「そのご質問にはお答えいたしかねるかとぞんじます」
 厚地のカーテンがさっと下り、照明がパッとついてオーケストラがシンコペーションに入った。頭にばかでかい蝶結(ちょうむす)びをつけた女の子達が「チョコレートはいかが? レモネードはいかが?」といって歩く。艦長ヴァンストーンをチャールズ・カートライトが演ずる「海の呼び声」第一幕の終わりである。
 有利なその位置から下を見下ろしながら、サタスウェイト氏は微笑していた。
 ひからびた小さな土瓶(どびん)といった感じのサタスウェイト氏は、美術や演劇のパトロンで、純然たる、とはいっても人好きのする俗物(スノブ)だ。ちょっと重要なハウス・パーティや社交的な会合には必ず顔を出している(招待客のリストの最後にはきまって《及びサタスウェイト氏》という文字がある)。そしてまた、著しい知性の持ち主でもあれば、森羅万象(しんらばんしょう)に対する実に鋭い観察者でもあるのだ。
 首をふりながら彼はつぶやいている、「意外だったなぁ、うん、全く意外だ」
 テラスに足音がして、サタスウェイト氏はふり返った。椅子(いす)を前へひき寄せて腰をおろしたその銀髪の大柄な人物は、鋭いが親切そうな中年の顔に、自分の職業を明瞭に刻みこんでいた、《医師》しかも《ハーレー街》と。バーソロミュー・ストレンジ卿は医者というその職業で成功していた。彼は神経病の著名な専門医で、最近の国王誕生日にナイトの称号を受けたのである。
 サタスウェイト氏の傍(かたわ)らに椅子をひき寄せてきて彼はいった、「何が意外だったんです? え? うかがいましょうよ」
 にっこりしてサタスウェイト氏は、急ぎ足に小径をのぼってくる人影の方へ目をやった。
「私はね、チャールズ卿がこんなにいつまでも、そのう――隠遁生活に満足していようとは思わなかったんですよ」
「全くだ! 私もですよ」相手は頭をそらして笑った、「私はチャールズを子供のころから知っていますがねえ。オックスフォードでいっしょだったのです。あの男は昔からああいう風でした――舞台でよりもふだんの生活での方がよっぽど役者なんだ! チャールズは常に演技をしているのです。せざるを得ない――彼の第二の天性です。チャールズは部屋から出るんじゃなくて――《退場する》。そしてそのためには、いつも何か気のきいたせりふをいわなくちゃならない。しかも色々な役を演じるのが好きなんです――何よりもね。二年前にあの男は舞台から引退した――人目を避けて簡素な田園生活をし、海への年来の憧(あこが)れを満すのだといいましてね。ここへやって来てこの家を建てた、彼の理想の素朴(・・)な田舎家です。三つも浴室があって最新式の設備のある! サタスウェイトさん、私だってこれが長続きするとは思いませんでしたよ。チャールズも所詮(しょせん)は人間です――観客が必要なはずです。二人か三人の退役軍人と少しばかりのおばあさん連に牧師が一人――これじゃあ演技するにも観客がお粗末すぎる。私はね、《海を愛する素朴な男》なるものも半年とふんでいました。そして正直なところ、いずれその役にも飽きて、次の出しものはモンテカルロの退屈男か、さもなきゃハイランズの領主ぐらいに考えてたのです――気まぐれですからね、チャールズは」
 医者は口をつぐんだ。長いおしゃべりだった。何も知らずに下からのぼってくる男をじっと見ているその目には、親愛の情と楽しげな様子が溢れていた。一、二分もすればチャールズもここにいっしょになるのだ。

……冒頭より


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