「ベルリン空輸回廊」

ハモンド・イネス/池央耿訳

ドットブック版 307KB/テキストファイル 257KB

700円

第二次世界大戦後の東西冷戦の緊張たかまるなかで、ソ連は西側の反共攻勢に対抗して、米英仏の管理下にある西ベルリンを封鎖した。ベルリンそのものはソ連支配下のドイツ東部に位置していたため、西ベルリンは陸の孤島となった。200万にものぼる西ベルリン市民を救うため、西側諸国は空前絶後の大規模空輸作戦を開始した。第二次大戦の英雄フレイザーは低燃費エンジンを開発して空輸事業に参入し、一攫千金を狙おうとするが……巨匠イネスの航空冒険小説。

ハモンド・イネス(1913〜98)  アリステア・マクリーンやデズモンド・バグリーらに大きな影響を与えたイギリスの冒険小説の先駆者、第一人者。ジョンブル魂を発揮するイギリス人の勇敢な姿を一貫して描き続けた。綿密な現地踏査をふまえた舞台設定は、どの作品においても圧倒的な臨場感をあたえるのに成功し、広範な読者を魅了した。他の代表作に「孤独なスキーヤー」「怒りの山」「蒼い氷壁」「銀塊の海」「キャンベル渓谷の激闘」「メリー・ディア号の遭難」など。

立ち読みフロア

 夜は暗く、私は疲れきっていた。頭痛がして、意識は混乱していた。道は高い土堤(どて)に挟まれた急な登りで、頭上には仄(ほの)白い天の川を背景に、木々の枯枝が節(ふし)くれだった指のように拡がっていた。坂を登りつめて平らなところへ出るあたりから、両側の土堤は低い藪(やぶ)に変った。木の間隠れに、畑の向こうにかかる赤い月が見えた。動く物の影もなかった。地上の生命はことごとく夜の冷気に凍(い)てついているかのようだった。私は息切れがして足を止めた。膝(ひざ)は皿が笑って言うことを聞かず、汗に濡(ぬ)れた肌は、まるで冷たい鋼(はがね)を当てられているようだった。刺すような風がサンザシの枝の間を吹き抜けた。全身に走るふるえに急(せ)かされて、私はまた歩きだした。事故の反動が遅ればせに襲って来たのだ。どこか身を潜(ひそ)める場所を見つけなくてはならない。寒ささえしのげれば、納屋の片隅でも構わない。ひと息入れて、国外へ逃亡することを考えなくてはならない。向い風を受けて、汗はことさら肌の熱を奪った。足はもつれがちだった。引きずるような足音は、時おり風に揺れる雑木林の葉ずれに掻(か)き消された。
 周囲の地面はすっかり平らになった。自然の平地ではない。矩型(くけい)の大きな建物が月明りの中に黒い輪郭を区切っているのが見えた。ほんの一瞬のことだったが、その武骨な造りは見間違うはずもなかった。次の瞬間、ディスパーサル・ポイントの高い盛り土が視野を遮(さえぎ)った。ディスパーサル・ポイントと、遠くにちらりと見えた格納庫は、すでに私が直感していたことを裏づけた。前方に開けた平らな土地は飛行場以外の何物でもなかった。
 飛行機が手に入りさえすれば! そうなのだ。はじめてのことではない。前の時は今よりもっと不利な情況だったではないか。樅(もみ)の木立と、月光を浴びて銀色に見える砂地の記憶が甦(よみがえ)った。そして、格納庫から洩(も)れる光を背にした男たちの黒い影。瞼(まぶた)にありありと浮かんだ光景は、私の身内にあの時とまったく同じ興奮を呼び覚ました。神経は張りつめ、体力が湧(わ)いて来た。私はとっさに森のほうへ向きを変えた。
 森の中はいくらか暖かだった。それとも、希望を見出して私は寒さを忘れたのだろうか。闇(やみ)は濃かった。夜陰に方角を見失う危険なしとしなかったが、幸い枝越しに、小さく揺れる蝋燭(ろうそく)の灯にも似て木星が光っていた。星明りで私はもと来た道を確かめることができた。森の木は行く手を遮り、小枝は私の顔をなぶった。たちまち額の傷から生温かい血が頬(ほお)を伝った。口の端に舌先を覗(のぞ)かせると辛(から)かったが、傷は痛くなかった。傷などに構ってはいられない。私の意識にはたった一つのことしかなかった。たった一つ――飛行機を手に入れることだ。

……冒頭より


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