「赤い影法師」

柴田錬三郎作

ドットブック版 300KB/テキストファイル 234KB

600円

「眠狂四郎」とならぶ柴田錬三郎の代表作。最高傑作といってもよい。石田三成に雇われていた忍者「影」の三代を主人公に、柳生宗矩(むねのり)・小野忠常(ただつね)の2人を審判に将軍家光のまえで挙行された寛永御前試合をめぐって展開される謎また謎の出来事。母子「影」がもくろむのはいったい何なのか? 忍術と武術の秘儀が目くるめくばかりに展開されて飽くことがないファンタジー時代小説の傑作。

柴田錬三郎(1917〜78)岡山県生まれ。慶大支那文学科卒。在学中から「三田文学」に作品を発表しはじめ、「イエスの裔」で直木賞受賞。「眠狂四郎無頼控」で一躍、時代小説の第一人者、人気作家となった。代表作には「剣は知っていた」「赤い影法師」「柴錬立川文庫」の連作などがある。

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 一

 ――お?
 檜《ひのき》の密林の中を、一上一下する杣道《そまみち》を辿《たど》って来て、急に明るい陽《ひ》ざしの中へ出た服部半蔵《はっとりはんぞう》は、不審の眼眸《まなざし》を、あたりに配った。
 道は、そこで、ぽつんと断ち切れていたのである。
 半蔵の前には、薄《すすき》と蓬《よもぎ》と、小花をつけた虎杖《いたどり》が、いちめんに生茂《おいしげ》って、爽《さわ》やかな秋風にそよいでいる。
 半蔵が辿ってきた道は、杣道といえ、御岳《おんたけ》の麓《ふもと》から、黒沢へ下り、木曽《きそ》福島の手前を、左折して、上田へ抜け、鳥井峠に至る確実な道筋を、古い地図にしめしていたのである。のみならず、半蔵を迷わせる岐点は、どこにもなかった。
「ふむ!」
 半蔵は、にやりとして、一歩退ると、かるがると跳躍して、背後から頭上十尺あまりの高処《たかみ》へ差しのばされた檜の太枝へ、とびついた。
 その太枝が、ところどころ傷《いた》んでいるのを、みとめて、半蔵は、おのれの推測が正しかったのを知った。
 道は、空中に移されていたのである。
 すなわち、半蔵の次の敏捷《びんしょう》な動作が、それを示した。
 太枝上を、苦もなく歩いて、充分にたわめておき、その反動を利用して、五体を、遠くへ飛ばせた。
 降り立った地点から、杣道は、再びつづいていた。
 そこから、山肌《やまはだ》の剥《む》き出された断崖の縁をうねって行く。瀬音が、密林の下から、ひびいて来た。
 およそ、数町――まず普通の旅人の足では徒歩不可能な険路であった上に、半蔵は、岩陰《いわかげ》から躍ってきた蝮《まむし》を、十疋《ぴき》余も、斬《き》りすてなければならなかった。
 ……それだけの、ふかい要心をもって、孤立した世界を守っている小さな峡間の聚落《しゅうらく》が、その平和なたたずまいを、やがて、半蔵の眼下に、あらわした。
 渓流をはさんで、黄ばんだ陸田が、小さな蓆《むしろ》を並べたように、ゆるやかな斜面に、ひろがっている。厚い茅葺《かやぶ》きの切妻合掌造りの屋根が、いずれも、赤い実をたわわにつけた柿《かき》の木を添わせて、美しい傾斜と切角《きりかど》を見せている。
 陽ざしは、いま、半蔵の立つ山腹から、その孤村へ移って、すべてのものが、人の手によって丹誠をこめられてあたたかく息づいているさまを、くまなく照らしているのであった。
「ここか?」
 半蔵のいくすじか刀創の走っている貌《かお》に、感慨の色が刷《は》かれた。
 陸田には、ちらほらと、刈入れの人影が見える。いずれも、下郎笠《げろうがさ》の下の顔を、黒い布でかくして、黙々として、おのれの作業に余念がない。
 だが、この連中は、ひとたび、この里を出れば剽悍《ひょうかん》無比の忍者と化すのだ。
 服部半蔵は、これら隠れ忍者六十余名を支配する頭領に、会いに来たのである。

 二

 半蔵が「影」と称《よ》ばれる稀代《きたい》の忍者を見たのは、十五年前――慶長五年十月――すなわち、徳川家康《とくがわいえやす》と関ヶ原で雌雄を決した石田三成《いしだみつなり》が、一敗地にまみれて、伊吹《いぶき》山中に潜んでいるところを捕えられて、三条河原で処刑されたその翌月のことであった。「影」は、石田三成に傭《やと》われていた忍者であった。
 関ヶ原の合戦の時には、「影」は、本拠佐和山城にいた。ここは、一族はじめ二千八百余名の兵が守っていたが、小早川秀秋《こばやかわひであき》の率いる一万五千の 軍勢の猛攻をあびて、あえなく陥落した。
「太田牛一慶長記」にいう。

 佐和山には、石田隠岐守《おきのかみ》(三成の父)宇田下野守《しもつけのかみ》(三成の外舅《がいきゅう》)石田木工頭《もくのかみ》(三成の兄)子息右近太夫ら、楯《たて》こもり難《がた》く見および、上臈《じょうろう》、子供らを呼びならべ、これにて腹を切る可《べ》きなり、おもいさだめて恨みとも思うべからずとて、心強くもそれぞれの妻子を刺し殺し、算を乱すありさま、目も当てられぬ様体なり。

 これよりさき、石田木工頭正澄《まさずみ》は、家康の勧誘を容《い》れて、自ら一人責任を負って、城兵全員をたすけるべく、開城を約束したのであった。ところが、これを不服として、叛徒《はんと》が本丸に放火したので、やむなく、まず正澄が天守閣に上って、妻子を殺して、自刃《しじん》した。つづいて、重臣土田桃雲が、三成の妻を刺し、天守閣を炎上せしめて、殉死した。
 焔煙《えんえん》、空を焼き掩《おお》い、城中の婦女は遁《に》げまどって、南端の懸崖《けんがい》から身を投ずるものが夥《おびただ》しかった。後に、この絶壁は、女郎墜《お》ち、と名づけられた。
 ところで、「影」は、落城の日、三成が最も寵愛《ちょうあい》していた十歳になる妾腹《しょうふく》の子秀也を、ひそかに、かくまっておいて、夜陰に乗じて、城外へ遁《のが》れ去ったのである。
 そして、仲間の忍者たちの諜報《ちょうほう》をあつめて、たちまち、三成が伊吹山中――伊香郡《いかごおり》古橋村法華寺《ほっけじ》三殊院裏の岩窟《がんくつ》に隠れていることを知って、秀也を、そこへともなった。
 三成は、近臣を一人のこらず、諭《さと》して立ち去らせて、ただ一人、そこにいた。「影」は、入っていった時、別人ではないか、と愕《おどろ》いた。三成は泄《せつ》(下痢症)を患《わずら》って、変貌《へんぼう》し果てていたのである。
 秀也は、父と判《わか》り乍《なが》らも、あまりに悽愴《せいそう》な形相《ぎょうそう》に、怯《おび》えて、泣いた。
 三成は、そのさまを眺《なが》めて、
「育てるにおよばず」
 冷然と宣告して、自ら脇差《わきざし》しを抜いて、わが子の胸を刺した。
 それから三日後、三成は、田中吉政《よしまさ》の臣田中長吉の手に捕えられた。三成は、「影」が、ほかへ身を移すようにすすめたのを、しりぞけて、幼少よりの親友田中吉政に、ここにいることを報《しら》せるように、命じたのであった。
 吉政は、三成を駕籠《かご》にのせて、大津の家康の本陣へ至った。
 家康は、三成を、本陣の門外の地べたへ座《すわ》らせた。下人の囚徒扱いであった。一夜が、明けた時、三成は、いつの間にか、畳の上に座り、狩衣《かりぎぬ》をまとうていた。篝火《かがりび》が燃え、警衛の士は二十余名もいた。にも拘《かかわ》らず、これが、なされたのである。「影」の仕業であった。

……巻頭より


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