「秋の日本」

ピエール・ロチ/村上菊一郎・吉氷清訳

ドットブック版 250KB/テキストファイル 178KB

500円

ピエール・ロチは1885年(明治18年)、35歳のとき、フランス海軍「トリファント号」の艦長として日本を訪問し、同年7月から12月中旬まで滞在した。大尉という身分からも、明治政府によって破格の待遇をうけ、「鹿鳴館」の舞踏会へ招待されたり、各地を見てまわる際にも、普通は目にできないものなどを見せてもらうことができた。そのときの体験をまとめたのが本書で、明治初期の日本の姿がみごとなまでにとらえられ、非常におもしろい貴重なドキュメントになっている。

目次

 聖なる都・京郡
 江戸の舞踏会
 じいさんばあさんの奇怪な料理
 皇后の装束
 田舎の噺《はなし》三つ
 日光霊山
 サムライの墓にて
 江戸
 観菊御宴

ピエール・ロチ(1850〜1923) フランスの作家で、海軍士官でもあった。ピエール・ロチは筆名で、本名はジュリアン・ヴィオー。作家としては異国情緒ゆたかにロマンスを描いた諸作で有名になったが、もっとも息長く読まれた作品としては「氷島の漁夫」がある。世界各地の旅行記にも定評があった。

立ち読みフロア
…………………………………
 外務大臣並びにSodeska《ソーデスカ》伯爵夫人は、
天皇の御誕生日に際し、Rokou-Meikan《ロク・メイカン》の
夜会に、貴下の御来臨を乞う栄光を
有するものに御座候。
 舞踏も可有之候。
…………………………………

 十一月のある日、ヨコハマ湾に碇泊中のわたしのところに郵便で届いた、隅々を金泥で塗った一枚の優美なカードに、こうフランス語で印刷してあった。裏面には草書体の英字で次のような案内が肉筆でつけ加えてある。「お帰りには特別列車が午前一時に Shibachi《シバシ》〔新橋〕駅を出ます」
 このコスモポリットなヨコハマにきてまだ二日しか経たないわたしは、いささか驚いて、この小さなカードを指のあいだでひねくるのである。実をいうと、わたしがNagasaki《ナガサキ》滞在中に覚えた日本の事物《ジャポヌリ》に関する一さいの観念を、このカードはぐらつかせるのだ。かようなヨーロッパ化した舞踏会、黒い燕尾服を着用し、パリ風のおめかしをしたYedoo《エド》の貴顕紳士淑女、それが大そう立派なものだとはわたしには想像されない……
 それから、ひと目見ただけで、この「伯爵夫人」という文字が(昨日この国の優雅な一雑誌に記載されているのを見た、あの奇妙な名前のさまざまな「侯爵夫人」たちと同様に)わたしをほほ笑ませる。
 つまり、なぜかというに、これらの夫人たちは大名の出であり、それに匹敵するフランスの爵位に日本風の肩書を改めたにすぎないのであるから。貴族的な教育と陶冶とは、フランスのそれに劣らず実際的で世襲的である。かくも古い民族の年代記の中に埋もれている、これらの貴族たちの起源を見つけだそうとするには、われわれの国の十字軍よりもずっと昔に遡らねばならぬかもしれない……
 この舞踏会の宵に、ヨコハマ駅は八時三十分発の汽車に乗るために大へんな人出である。ヨーロッパ人の全居留民が、あの伯爵夫人の招待に応ずるべく盛装凝らして佇んでいる。オペラハットをかぶった紳士たち。レースの頭巾をかぶり、毛皮の外套の下に長い薄地の裳裾《もすそ》を褄取《つまど》った淑女たち。そしてこれらの招待客は、われわれの国のと同じ待合室の中で、フランス語、イギリス語、ドイツ語同士、それぞれかたまって話し合っている。この八時三十分発の汽車には、日本人の姿はあまり見かけない。
 行程一時間、そうしてこの舞踏会の列車はエドに着く。
 ここでまたびっくりする。わたしたちはロンドンか、メルボルンか、それともニューヨークにでも到着したのだろうか? 停車場の周囲には、煉瓦建ての高楼が、アメリカ風の醜悪さでそびえている。ガス燈の列のために、長いまっすぐな街路は遠方までずっと見通される。冷たい大気の中には、電線が一面に張りめぐらされ、そうしてさまざまな方向へ、鉄道馬車《トラムウェイ》は、御承知の鈴や警笛の音を立てて出発する。
 とかくするうちに、先刻からわたしたちを待ちうけていたらしい、全身黒装束の見慣れぬ男の一群が、わたしたちを迎えに飛んでくる。それはジン・リキ・サンである。人間の馬(hommes-chevaux)、人間の疾走者(hommes-coureues)である。彼らは鴉《からす》の群のようにわたしたちの上に襲いかかり、ために広場は暗くなる。各ゝその背後に小さな俥を曳いて、跳んだり、わめいたり、押し合ったりしている。はしゃぎまわる悪魔の子《ディアブロッタン》の一群のように、わたしたちの通行をさえぎりながら。彼らは肉襦袢《にくじゅばん》のように腿にぴったりくっついた糊付けの股引《キュロット》をはいている。筒袖のついた、同じように糊付けの短かい半纒《ヴェスト》。猿の拇指のように持ち上った足指を二つに分けている鼻緒のついた履物。背中の真ん中には、白い大きな支那文字の銘が、まるで霊枢台のうえに哀悼の銘句を記したように、この衣裳の一面の黒地の上にくっきりと浮き出ている。彼らはマガック猿のような手つきで、どんなにその筋肉が堅いかをわたしたちに嘆賞させようと膕《ひかがみ》をぴたぴた叩いている。わたしたちの腕や外套や脚を引っぱっては、はげしくわたしたちの身柄を奪い合って争う。


……「江戸の舞踏会」冒頭より

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