「アメリカ」

カフカ/谷友幸訳

ドットブック版 260KB/テキストファイル 262KB

900円

誘惑されて女中に子供を産ませたため、16歳のカール・ロスマンは両親によってアメリカへ追放される。だがニューヨークの伯父の家からも追い出され、カールは放浪生活を余儀なくされる。新世界での冒険につぐ冒険、裏切りあり、どんでん返しあり、悪徳行為あり、カールは転落に転落を重ねながら数奇な運命をたどる……カフカの最初の長編小説。

フランツ・カフカ(1883〜1924) ドイツ語で作品を発表したチェコ生まれの作家。中産階級のユダヤ人家庭の生まれ。プラハ大学で法律を学び、労働災害保険局に勤務し、余暇をみつけて執筆した。生来の不安症や憂鬱症にくわえて、結核を患い、41歳で亡くなった。カフカは、自分の死後、未刊の原稿をすべて焼却してくれるように願ったが、友人で、のちに彼の伝記も書いたユダヤ系ドイツ人作家マックス・ブロートによって、今日のカフカの名声を不動のものにした多くの作品が出版された。代表作「審判」「城」「アメリカ」の3大長編作品は、すべて、こうして公になった。

立ち読みフロア

 カール・ロスマンが十六歳で、豊かでない両親によりアメリカへやられたのは、女中の誘惑にかかって、それに子供を産ませたからであるが、そのカールを乗せた船がついに船脚をおとして、しずしずとニューヨークの港にはいって行ったとき、ずっとさいぜんから彼の眼を引きつけていた自由の女神の立像が、ふいにひときわ強くなった日の光に包まれたように、彼には思われた。女神の剣を持った腕は、いま挙げたばかりのように、天にそびえ、女神の姿のまわりには自由なそよ風が吹いている。
《ずいぶん高いなあ》と、心のうちでつぶやいた彼は、そこに立ちつくしたまま、船を下りることさえもすっかり忘れていた、そのため、彼のかたわらを通りすぎてゆく赤帽たちの数がますますふえてゆくにつれて、しだいに舷側の手すりへまで押しやられて行った。
 航海中にちょっと知り合いになった若い男が、通りすぎながら、声をかけた、「おや、まだ下船する気がしないのですか」「いや、いつでも下船できます」と、カールは、相手にほほえみかけながら言うと、気負い立って、根が丈夫な少年でもあったので、トランクを肩に担ぎ上げた。ところが、ステッキを形ばかり振り回しながら、早くもほかの船客たちといっしょに遠ざかっていた、その知り合いの頭ごしに、ふとまた眼をはせたとき、彼は、蝙蝠傘(こうもりがさ)を下の船室に忘れてきたのに気づいて、うろたえた。急いで彼は、さしてありがたくもなさそうな顔をしているその知り合いに、すまないが、ほんのしばらくトランクのそばで待っていてくれるようにと、頼むと、引き返してくるときの道をまちがえないように、あたりの状況をひとわたり見回してから、その場を駆け去った。下へ降りてみて、おそらくは全船客の下船とつながりがあるのだろう、ひどく近道になるはずの通路が、残念ながら、閉ざされているのに、はじめて気づいた。そこで、ひっきりなしに折れ曲がっている廊下を抜け、書き物机だけがわびしく取り残されている、がらんとした部屋をよぎって、下へ降りる階段を苦労しながら探さねばならなかった。階段は次から次へと続いていた。ところが、その道は、ほんの一度か二度しか通ったことがなく、しかもそのときは、いつもかなり大勢の人といっしょだったので、そのうちに彼は、実のところ、すっかり行き迷ってしまった。今はただ、たえまなく頭上で幾千ともしれぬ人々の足を引きずる音が聞こえているだけで、すでに停止されたエンジンの惰性による最後の動きが、さながら吐息のように、遠くから伝わって来るにすぎない。途方に暮れたあげく、出会う人もないままに、彼は、さまよい歩くうちにふと足が停まったところにあった、小さなドアを出任せにたたきはじめた。
「あいてるぜ」と、内から叫ぶ声がしたので、カールはすっかりほっとして、ドアをあけた。「なんだってそんなに気違いじみたたたきかたをするんだい」と、ひとりの大男が、ほとんどカールのほうへは眼もくれずに、尋ねた。天井のどこかに明かり窓があるのか、船内の上部でとっくに使い古されていた鈍い光が、粗末な船室のなかへ射し込んでいた。ベッドと戸棚と椅子とそして大男とが所狭しとばかりに陣取っているさまは、まるで物置き小屋にいるようだった。「僕、道に迷ったのです」と、カールは言った。「航海中はこれほどとはちっとも気がつきませんでしたが、すごく大きな船ですね」「うん、あんたの言うとおりさ」と、男は、いくらか誇らしげに言った。男は、小型のトランクの蓋をいくども両手で締めてみては、本錠の掛かりぐあいに耳を澄まして、トランクの錠前をいじくるのに余念がない。「まあ、はいったらどうだい」と、男は続けて言った、「いつまでもそこに立っているもんじゃないぜ」「おじゃまでないですか」と、カールは、尋ねた。「ああ、なんでじゃまなもんかね」「あなた、ドイツ人ですか」カールは、アメリカへ新しく渡来した者たちの身に迫る危険について、ことにアイルランド人の仕打ちについて、いろいろと聞かされていたので、念のため確かめておきたかったのである。「そうとも、そうとも」と、男は言った。それでも、カールは、まだためらっていた。すると、男がふいにドアの引き手をつかみ、すばやくドアを締めたので、カールは背中をドアに押されて、男のそばへ引き寄せられてしまった。「通路からなかをのぞかれるのがいやなんだ」と、男は、言って、またもやトランクをいじくりはじめた。
「そこを走りすぎる奴らから、一々こちらをのぞき込まれてみろ、たいがいの者なら我慢がならないはずだ」「でも、通路は人影ひとつありませんよ」カールは、いやというほどベッドの柱脚に押しつけられて立ったまま、そう言った。「うん、今はな」と、男は言った。《しかし、今が問題ではないのか、この男とはどうも話がしにくい》と、カールは、思った。「ベッドのうえにでも横になるといいや。そのほうがずっとくつろげるぜ」と、男は、言った。カールは、どうにかうまくはい込みながら、はじめ一気に飛び込もうとしたむだな試みを思い出して、ひとり大声で笑った。ところが、ベッドにおちつくやいなや、彼は、思わず叫んだ、「たいへんだ、トランクのことをすっかり忘れていた」「一体どこに置いて来たんだ」「上のデッキにです。知り合いがひとり、番をしてくれています。あの人、なんという名だったかしら」彼は、母が彼のためにわざわざ旅行用にと上着の裏に縫いつけてくれた隠しポケットから、一枚の名刺を取り出した。「ブッターバウム、そうだ、フランツ・ブッターバウムだ」「そのトランクは無いとひどく困るんかね」「もちろんです」「そうか、それならどうして他人になんか任せたりしたんだ」「蝙蝠傘を下へ忘れてきたものですから、それを取りに駆け下りて来たのですが、トランクまで曳きずって来る気がしなかったのです。ところが、こうして道に迷ってしまったりして」「ひとりなんだね。連れはいないのかい」「ええ、ひとりなのです」《この男なら頼りにしていいかもしれない。これ以上の友だちは、どこを探しても、すぐには見つかるまいし》と、そんな考えがちらとカールの脳裏をかすめた。「とすると、今となっては、トランクまでも無くしてしまったわけだな。蝙蝠傘は言うには及ばずさ」そう言いながら、男は、カールの事柄にようやく興味を少し感じはじめたかのように、椅子に腰を下ろした。「でも、トランクはまだ無くなってはいないと、ぼくは、信じています」「信じる者は救わるべし」と言って、男は、黒くて短い濃い髪の毛をはげしくばりばりと掻いた。「着く港町が変われば、船のうえの習わしも変わるんだ。ハンブルクだと、あんたのブッターバウムとやらも、たぶんトランクを見張っていてくれたさ。ここじゃ、九分九厘まで、ふたつとも、もう跡形さえも無いにちがいない」「それにしても、とにかく、今すぐ上へ行って見てきます」と言って、カールは、どうすれば部屋を出てゆけるか、周囲を見回した。「ここにじっとしているがいい」と、男は、言って、片方の手で荒っぽくカールの胸もとをこづき、カールをベッドへ押し戻した。「なぜです」と、カールは、腹だたしげに尋ねた。「無意味だからよ」と、男は、言った。「もうちょっとすれば、わしも出かけるさ。だから、いっしょに行こう。トランクは、盗まれているか、そのときは処置なしだが、それとも、あの男が置き去りにしているか、二つに一つだ。あとの場合なら、船内がすっかりからっぽになるまで待てば、それだけ楽に見つかるじゃないか。蝙蝠傘も同様にな」「船の勝手はよくわかっているのですか」と、カールは、うたぐりぶかく尋ねた。人気(ひとけ)のない船上でなら自分の所持品もきわめて容易に見つかるという、ふだんならすなおに呑み込めるこの考えにも、どこかに引っ掛かるものがあるように、彼には思えた。「これでも火夫だぜ」と、男は、言った。「火夫ですって」と、カールは、それが予期以上のことだったように、喜んで叫ぶと、肘(ひじ)を突いて、男の顔をさらに間近からまじまじとながめた。

……巻頭「火夫」より

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