「あめりか物語」

永井荷風/作

ドットブック版 316KB/テキストファイル 202KB

700円

この作品は1903〜07年(明治36〜40年)の4年間、荷風が渡米したときの旅行記ともいえる短編集。そこに移民として、あるいは会社員、留学生として暮らした日本人を中心として、当時のアメリカ社会の一断面が、鮮やかに描きだされている。明治41年、発表と同時に大きな話題となり、荷風の名を有名にした処女作。「ふらんす物語」と姉妹編をなす。「ただ行かんがために行かんとするものこそ、真個(まこと)の旅人なれ。心は気球の如くに軽く、身は悪運の手より逃れ得ず……」このボードレールの詩が巻頭を飾っている。

永井荷風(ながいかふう 1879〜1959)東京小石川生まれ。東京外国語学校清国語科中退。ゾラの影響をうけ「地獄の花」を書き自然主義文学の紹介者となったが、アメリカ、フランスに遊学後「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表、以後一貫して唯美主義的作風で知られた。一時は「三田文学」を主宰、江戸芸術に傾倒した。代表作は花柳界、私娼 街を舞台にした「腕くらべ」「墨東綺譚」など。その反権力姿勢は終生かわらず、1917〜59年にわたる貴重な世相記録でもある日記「断腸亭日乗」を残した。

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支那街(しなまち)の記

 どうかすると、私は単に晴渡った青空の色を見ただけでも、自分ながら可笑(おか)しいほど、無量の幸福を感ずる事があるが、その反動としては、何の理由、何の原因もないのに、忽如(こつじょ)として、暗(やみ)のような絶望に打沈む事がある。
 たとえば、薄寒い雨の夕暮なぞ、ふと壁越に聞える人の話声、猫の鳴く声なぞが耳につくと、もう歯を喰い縛って泣きたいような心地になり、突如(いきなり)、錐(きり)で心臓を突破って自殺がして見たくなったり、あるいはこの身をば、何ともいえぬ恐しい悪徳、堕落の淵に投捨て見たいような、さまざまな暗黒極る空想に悩まされる。
 こうなると、もう何も彼も顛倒(てんとう)してしまって、今まで世間も自分も美しいと信じていたものが、全く無意義に見えるばかりか、厭わしく、憎くなり、醜といい悪といわるるものが、花や詩よりも更に美しく且つ神秘らしく思われて来る。すべての罪業(ざいごう)、悪行(あっこう)が、一切の美徳よりも偉大に、有力に見え、真心からそれをば讃美したくなる。
 で、ちょうど世間の人が劇場や音楽会へでも行くように、私は夜が来るといえばその夜も星なく月なく、真の闇夜を請願い、死人や、乞食や、行倒れや、何でもよい、そういう醜いもの、悲しいもの、恐しいもののあるらしく思われるところをば、止みがたい熱情に迫られて夜を徹してでも彷徨(さまよ)い歩く。
 されば、紐育中の貧民窟という貧民窟、汚辱の土地という土地は大概歩き廻ったが、ああ! この恐るべき慾望を満すには、人の最も厭(い)み恐れる支那街(しなまち)の裏屋ほど適当な処はないらしい。しかり、支那街――その裏面の長屋(テネメント)。ここは乃ち、人間がもうあれ以上には、堕落し得られぬ極点を見せた、悪徳、汚辱、疾病(しっぺい)、死の展覧場である……

 私はいつも地下鉄道に乗って、ブルックリン大橋(ブリッジ)へ出る手前の、小さい停車場に下(おり)る、と、この四辺(あたり)は問屋だの倉庫続きの土地の事で、日中の喧(さわぎ)が済んだ後は人一人通らず、辻々の街燈の光に照されて、漸く闇を逃れている夜の空には、窓も屋根もない箱のような建物が高く立っているばかり。中部ブロードウエーの賑かな夜ばかりを見た人の眼には、紐育中にもこんな淋しい処があるかと驚かれよう。路傍(みちばた)には貨物(かぶつ)を取出した空箱(からばこ)が山をなし、馬を引放した荷馬車が幾輌となく置き捨ててある、その間を行き尽すと、そこがもう貧民窟の一部たる伊太利亜の移民街で、左手にベンチの並んでいる広い空地を望み、右手は屋根の歪んだ小家続き、凸凹(でこぼこ)した敷石道を歩み、だらだら坂を上れば、忽ちプンと厭な臭気(におい)のする処、乃ち支那街の本通りに出たのである。
 街は彼方に高架鉄道の線路の見える表通りから這入って、家続きに迂曲して二条に分れ、再び元の表通りへと出ている、誠に狭い一区劃ではあるが、初めて入った人の眼には、凸凹した狭い、敷石道の迂曲する具合が、行先き知れず、如何にも気味悪く見えるに違いない。家屋は皆な米風(べいふう)の煉瓦造りであるが、数多い料理屋、雑貨店、青物店など、その戸口毎に下げてある種々(さまざま)の金看板、提灯、燈籠、朱唐紙(べにどうし)の張札が、出入や高低(たかひく)の乱れた家並の汚なさ、古さと共に、暗然たる調和をなし、全体の光景をば、誠によく、憂鬱に支那化さしている。
 夜になって、横町の端(はず)れから、支那芝居の喧(かしま)しい土鑼鐘(どらがね)の響が聞え、料理屋の燈籠には一斉に灯(ひ)がつくと、日中は遠く市中の各処に労働していた支那人も追々に寄集って来て、各自(てんで)に長煙草を啣(くわ)えながら、路傍で富籤や賭博(ばくち)の話に熱中している、その様子の外国人には如何にも不思議に思われると見えて、何事にも素早い山師がCHINA TOWN BY NIGHT――なぞと大袈裟な看板を立て、見物のオートモビルに好奇(ものずき)の男女を乗せて、遠い上町(うわまち)から案内して来るもあり、または立派な馬車でブロードウエー辺(あたり)の女郎を引連れ、珍し半分、支那料理屋で夜を更かそうという連中もある……
 しかし要するに、これは支那街の表面に過ぎぬ。一度(ひとたび)、料理屋なり商店なり、それらの建物の間を潜(くぐ)って裏へ抜けると、いずれも石を敷いた狭い空地(ヤード)を取囲んで、四、五階造りの建物が、その窓々には汚い洗濯物を下げたまま塀の如くに突立っている。
 私が夜晩(おそ)く、忍び行く所はこの建物――その内部は蜂の巣のように分れている裏長屋である。

 ここへ這入込むには、厭やでも、前なる狭い空地(ヤード)を通り過ぎねばならぬ、が、その敷石の上には、四方の窓から投捨てた紙屑や、襤褸片(ぼろきれ)が、蛇のように足へ纏(まつわり)付くのみか、片隅に板囲いのしてある共同便所からは、流れ出す汚水が、時によると飛越し切れぬほどな、大い池をなしている事さえあり、また、建物の壁際に添うては、ブリキ製の塵桶(ごみおけ)が幾個(いくつ)も並べてあって、その中からは盛(さかん)に物の腐敗する臭気(におい)が、たださえ流通の路を絶れた四辺(あたり)の空気をば、殆ど堪えがたいほどに重く濁らしている。で、一度(ひとたび)、ここに足を踏入れさえすれば、もう向うの建物の中を見ぬ先から、……ちょうど焚香(せんこう)の薫(におい)をかいで寺院内の森厳に襲われると同様、清濁の色別(いろわけ)こそあれ、遠く日常の生活を離れた別様の感に沈められるのである。
 で、折に触れた一瞬間の光景が、往々にして、一生忘れまいと思うほどの、強い印象を与える事がある。……確か晴れた冬の夜の事、私は例の如く、帽子を眉深(まぶか)に、外套の襟を立て、世を忍ぶ罪人(つみびと)のように忍入ると、建物と建物の間から見える狭い冬の空に、大きな片割月(かたわれづき)の浮いているのを認めた。光沢(つや)のない赤いその色は、泣腫(なきはら)した女の眼にも例えようか。弱々しいその光は、汚れた建物の側面から滑って、遥か下なる空地(ヤード)の片隅に、いわれぬ陰惨な影を投げた。扉や帷幕(カーテン)を引いた窓の中(うち)には火影(ほかげ)の漏れながら、人声一ツ聞えぬ。すると、いずこから出て来たとも知れぬ大きな黒猫が一匹、共同便所の板囲いの上をのぞくと、その背を円く高めながら、悲し気な落月の方に顔を向けて、一声、二声、三声ほども鳴続けて、それなり掻消(かきけ)すように姿を隠してしまった。私はこの夜ほど深い迷信に苦しめられた事はない……。

……「支那街の記」冒頭より


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