明治開化[安吾捕物帖(上・下)]

坂口安吾著

ドットブック版 336B/テキストファイル 250KB

各700円

明治十年代後半以降の、いわゆる鹿鳴館時代の明治開化期を背景にした異色の連作ミステリー。捕物帖とうたっているが、江戸ものの捕物帳とは異なり、岡っ引役が登場するわけではない。むしろ開化期のなんでもありの興味津々の世情・風俗をバックに活躍するホームズものといえる。ホームズ役は旗本の末孫で洋行がえりのハイカラ男、結城新十郎、これに、右隣で町道場をひらき巡査に剣術を教えている泉山虎之助、左隣に住む人気戯作者、花廼屋因果(はなのやいんが)がからむ。そしてきわめつきは当時氷川(ひかわ)に隠居暮らしをおくる勝海舟。虎之助が難事件のはなしを勝に報告すると、勝は独自の見解を披瀝して事件を推理する。しかし、最後に事件のなぞを解くのは新十郎である。「モラリストらしい哲学や残酷なユーモアがあったばかりでなく、まったく予期しなかった、転形期の日本のすさまじい姿があった」…花田清輝はこう述べて、この作品を激賞した。

上巻収録作…「舞踏会殺人事件」「密室大犯罪」「魔教の怪」「ああ無情」「万引家族」「血を見る真珠」「石の下」「時計館の秘密」「覆面屋敷」「冷笑鬼」

下巻収録作…「稲妻は見たり」「愚妖」「幻の塔」「ロッテナム美人術」「赤罠」「家族は六人・目が一ツ半」「狼大明神」「踊る時計」「乞食男爵」「トンビ男」

坂口安吾(さかぐちあんご 1906〜55) 新潟市生まれ。東洋大学印度哲学科卒。1930年、同人雑誌「言葉」を創刊、翌年に発表した「風博士」で認められたが、不遇の時代が続いた。しかし1946年、戦後の本質を鋭く洞察した「堕落論」などで人気作家になった。1955、脳溢血により急死。享年48歳。小説の代表作に「白痴」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」、エッセイでは「日本文化私観」「堕落論」などがある。

立ち読みフロア
 氷川(ひかわ)の海舟屋敷の黒板塀をくぐったのは神楽坂(かぐらざか)の剣術使い泉山虎之介。この男、時はもう明治十八九年という開化の時世であるが、酔っぱらうと、泉山虎之介タチバナの時安(ときやす)と見得を切って女中のホッペタをなめたがる悪癖がある。
 虎之介は幼少のころ、海舟について剣術を習ったことがある。そのころの勝海舟はいたって貧乏、まだ幕府には重用されず、剣術や蘭学などをメシの種にしていた。習うこと二三年、海舟が官について多忙になったので、山岡鉄舟(てっしゅう)にあずけられた。そのとき虎之介は今なら小学校四五年生ぐらいの子供、それからズッと山岡について剣術を学び、今は神楽坂で道場をひらいているが、あんまりはやらない。
 虎之介は海舟邸の玄関で、籐(とう)のイスに腰を下して、頭をおさえて考えこんだ。これがこの男の変った癖で、心配事があって海舟屋敷を訪れる時には、玄関の籐イスに腰かけて、頭をかかえて今更のように考えこむ。そのせいで、籐イスは脚が外れそうになってグラグラしている。彼の図体が大きいからだ。
 四五分もそうしてから、虎之介は思いきって立ち上った。そこで訪(おとな)いを通じる。女中がひッこんで、代って海舟付きのお側女中小糸が現れて、どうぞこちらへと案内に立つ。まず十二畳と六畳の客間があって、ここにはイス、テーブルがおいてある。旗本屋敷のころは、ここが正式の座敷だ。床に河村清雄(かわむらきよお)の竜の油絵がかかっている。この客間の次の小間が「海舟書屋」で元の書斎。南洲や甲東と屡々(しばしば)密話清話した歴史的な小部屋だ。これらを右に見て長廊下を五間ほど行くと、六畳と八畳の部屋が今の書斎である。三畳の茶室と土蔵がついている。
 今日は幸い相客がなかった。海舟の身にこもる気品が発しているが、当人アグラをかいて、口はベランメーである。
「虎かい。どうだ。ちかごろ剣術使いは忙しいかエ」
「父母子七名、どうやら飢えをしのいでおります」
「神楽坂に酔っぱらいの辻斬がでるそうな。オメエに似ているという話だ」
「メッソウもない」
「婦人の首ッ玉にかじりついて頬ッペタをなめるものだから、神楽坂は夜の八時から婦人の通行がないそうな。どうせなめて下さるなら隣の新十郎様にしてもらいたいと神楽坂の娘や新造が願(がん)をかけているそうだ。虎が首ッ玉にかじりつくのはコンニャク閻魔(えんま)が似合いだろうと按摩のオギンが大きに腹を立てていたぜ」
「汗顔(かんがん)の至りで、多少身に覚えがありますが、話ほどではないようで。実は、その結城新十郎どののことで御前の御智略を拝借にあがりましたが」
「なにか事件があったかい」
「まことに天下の大事件で、新聞は記事差止め。密偵は津々浦々にとび、政府は目下御前会議をひらいております」
 いつもながら虎之介の話は大きいが、御前会議は例外だ。海舟はフシギがって、
「どこかで戦争がはじまったかエ?」
「実は昨夜八時ごろ政商加納五兵衛が仮装舞踏会の席上何者かに殺害されました。当夜の会には閣僚はじめ各国の大公使、それに対馬典六、神田正彦も出席いたしておりました」
 さすがの海舟も、神色自若たるものではあるが、口をつぐんで、ちょッと考えこんだ。天下稀代の頭脳、利剣の冴え、飛ぶ矢の早読み、顕微鏡的心眼であるが、事はまことに重大だ。

……「舞踏会殺人事件」巻頭より


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