「アンの青春」

モンゴメリ/神山妙子訳

ドットブック 216KB/テキストファイル 231KB

500円

大学進学をいさぎよく諦めたアンは、アヴォンリーにもどって小学校の先生に! 子供たちの面倒をみるかたわら、村の改善会を組織したり、双子の孤児を引き取ったり、さらにはロマンスの橋渡しをしたり、あいかわらずの大奮闘…そして。

ルーシー・モンゴメリ(1874〜1942)はカナダのプリンス・エドワード島生まれ。祖父母に育てられ、大学を出たあと故郷の島で教職についたが、祖母を助けて郵便局の仕事にたずさわる。31歳のときに書いた「赤毛のアン」が3年後に日の目をみると、たちまちベストセラーとなった。以後、「アン物語」は8編のシリーズとなった。

立ち読みフロア


 八月のある美しい午後、プリンス・エドワード島の農家の入口の赤い大きな砂岩の階段の上に、背の高い、ほっそりした「十六歳と六カ月」になる一人の少女が腰をおろしていた。気まじめな灰色の瞳に、友達から金褐色と呼ばれている髪をしたこの娘は、ウェルギリウスの詩を何行か訳してみようと堅く心に決めていたのだった。
 しかし八月の午後は、死語と取組むよりは夢みることのほうに遥かに向いていた。青いもやが収穫期をひかえた畑の斜面をすっぽり蔽い、微風がポプラの梢をそよがせ、桜の果樹園のかたすみにはモミの若木のほの暗いしげみを背に、燃えたつような赤いけしがゆらゆらと揺れていた。いつしかウェルギリウスの詩集は地面にすべり落ちていた。組み合わせた両手にあごをのせたアンは、ジェイ・エィ・ハリソン氏の家の真上にもくもくと大きな白い山のようにもり上がった巨大な入道雲を眼で追いながら、心は遥かかなたの快い夢想の世界をさまよっていた。そこでは一人の教師が未来の政治家の運命を形成し、若い人たちの精神に高邁《こうまい》な抱負を鼓吹《こすい》し、着々と教育の成果をおさめているのだった。
 確かに厳しい現実にたち帰れば――とはいえ、アンはよくよくのことがない限り、めったにそうはしなかった――アヴォンリーの小学校は、将来名士になるような人材に恵まれているとはどうにも思えなかったが、教師の感化がよい実を結べばそれもありえないことではない。やり方次第では目的を達成できるかも知れないという、ある種のばら色の理想がアンにはあった。そして今、四十年先の自分がある有名人と同席しているというすばらしい場面を思い浮かべていた――その人物がどの方面で名を挙げたのかよくわからないのはともかくとしても、アンとしては、大学の総長かカナダの首相であれば申し分なかった――その人はアンのしわだらけの手を取って深く腰をかがめ、自分の抱負を最初に燃えたたせたのはアンであり、またこれまでの成功は、ずっと以前、アヴォンリー小学校で、アンから受けた薫陶《くんとう》のたまものに他ならないときっぱり言い切るのだった。しかしこの快い空想もひどく不愉快な邪魔が入ったためにみじんに砕かれてしまった。
 ジェルシー種の牛が、真剣な顔付で、あたふたと小道を駆け降りてきたかと思うと、五秒後にはハリソン氏がやってきた。彼が裏庭に飛び込んできた様子は、「やってきた」などというおだやかな表現にふさわしいかどうかはわからなかったが。
 ハリソン氏は木戸を開ける暇も惜しいというように、柵を飛び越えて入ってきたかと思うと、驚きの眼を見張っているアンの前に荒々しく立ちふさがった。アンは立ち上がって当惑したようなまなざしでハリソン氏をみつめた。ハリソン氏は最近アンの家の右隣に越してきた人だが、これまで一、二度顔を合わせたことはあっても、挨拶をかわしたことはなかった。
 四月早々、アンがクイーン学院からかえる以前に、カスバート家の西隣のロバート・ベル氏が地所を引き払って、シャーロット・タウンに引越していった。彼の農場はジェイ・エィ・ハリソンという人の手に渡ったが、この人物について分っているのは、その名前と、ニュー・ブランズウィック出身ということだけだった。しかし、アヴォンリーに来て一カ月とたたないうちに、変わり者だという、うわさが広まってしまった。レイチェル・リンド夫人に言わせると、「気むずかし屋」ということだった。レイチェル夫人は、お馴染みの読者ならよく覚えているように、ずけずけものを言う人だった。ハリソン氏は、確かに、他の人々とは違っていた。そして、それこそ、周知のごとく変人の変人たるゆえんであった。
 まず第一に、ハリソン氏は、自分一人で、世帯をやりくりし、自分の家では、おろかな女どもに用はないと公言してはばからなかった。アヴォンリーの女性達は、その仕返しとして、彼の家事や、料理の仕方について、芳しからぬうわさを広めた。彼はホワイト・サンドのジョン・ヘンリー・カーター少年を雇っていたが、そのジョン・ヘンリーがうわさのいとぐちをつくった。まず、ハリソン家では、食事の定まった時間というものがなかった。ハリソン氏は、お腹がすくと、あり合わせのもので食事をすませていた。もしその時ジョン・ヘンリーが居合わせれば、分け前に預かれるが、そうでなければ、ハリソン氏が次にお腹がすくまで、待っていなければならなかった。ジョン・ヘンリーは、日曜日に家に帰って、お腹一杯つめこみ、月曜の朝には、母親からかご詰めのお八つをもらって帰らなかったら、飢え死をしたかも知れないとこぼしていた。
 皿洗いときたら、ハリソン氏は、雨の日曜日にぶつかるまでは、やる気配一つ見せなかった。いよいよその時がくると、彼は仕事にとりかかり、大きな天水おけの中で一時に洗い上げて、後はかわくまでほおっておいた。
 その上、ハリソン氏は、けちだった。アラン牧師の月給のための寄付を頼まれた時も、まず彼の説教が、何ドルくらいに値するか調べてからのことだと返事をした。いい加減な買物をするたちではないと言いたかったのだ。リンド夫人が宣教師への寄付を頼みに行った時――ついでに家の中を見るためでもあったのだが――ハリソン氏はアヴォンリーのおしゃべりばあさん連のなかには、自分の知っているどの土地よりも異教徒が多いから、その連中を改宗させると言うのなら、喜んで献金してもいいと言った。レイチェル夫人はそそくさと別れをつげ、ロバート・ベル夫人がお墓におさまっているのは、不幸中の幸いだったと言いきった。夫人があんなに自慢していた家の現状を見たら胸もつぶれるような思いをしたに違いないと言うのだった。
「だって、二日おきに、あの人は、台所の床をみがいていたんですよ」リンド夫人は、マリラ・カスバートに、憤然として語った。「それが、今ときたら、歩くのに、スカートの裾をつまみあげなくちゃならないんだもの」
 さらに、ハリソン氏は、ジンジャーというおうむを飼っていた。アヴォンリーではこれまでにおうむを飼った人はいなかったので、そのこと自体あまり褒めたことではなかった。それに、そのおうむときたら、もし、ジョン・ヘンリー・カーターの言葉を信じるなら、あんなに罰当たりの鳥はいないとのことだった。まったくその口汚ないののしりようといったらなかった。別に働き口があることさえ確かならカーター夫人は、すぐにもジョン・ヘンリーを連れ戻したことだろう。その上、ジョン・ヘンリーが、ある日、鳥かごのすぐそばで背をかがめた拍子に、ジンジャーに首の真後ろをかみつかれてしまったこともあった。カーター夫人は、運の悪い息子が日曜に帰って来るたびに、誰かれとなく傷跡を見せるのだった。
 怒りのあまり口もきけなくなって、自分の前に立っているハリソン氏を見た時、こうした事柄全部が一瞬のうちにアンの心に閃《ひらめ》いた。一番心おだやかなる時でさえ、ハリソン氏をハンサムと言うことはとてもできなかったことだろう。彼は背が低く、太っていて、はげ頭だった。それが今、怒りのために、丸顔が紫がかり、ただでさえ出目の青い目が、額から飛び出さんばかりになっているのを見て、アンは、こんなに醜い男に会ったのは初めてだと思わずにはいられなかった。
 直ちに、ハリソン氏は口火を切った。
「もう、がまんならん」彼は、口角《こうかく》泡を飛ばす勢いでしゃべった。「一日だってするもんか。これで三度目だぞ、え、三度目ですぞ! もう忍耐は美徳などと言っておられんわい。この前、あんたのおばさんに、こんなことを二度と起こさないように注意したというのに、守られなかったんだ、あの人のせいですぞ。どういう気なのか、聞かせてもらおうじゃあないか。そのためにこうして、足を運んできたんだから」
「何がお困りなのか、ご説明いただけませんか」とアンは、き然として尋ねた。アンは、こうした口調を、学校が始まった時にちゃんと使えるようにと、最近になって相当練習を積んでおいたのだった。しかし、かんかんになっているハリソン氏には、一向に効果はなさそうだった。
「お困りかって? きまってるわい。困っているのはだな、三十分とたたない前、あんたのおばさんのジェルシー種の牛が、わしのからす麦畑に入りこんでるのを見つけたからですよ。言っときますがね、三度目ですぞ。先だっての木曜に一回と、それに昨日も入っていたんだから。ここへ来て、おばさんに、二度とこんなことがないように言っといたんだがね。それが今度もだめだっていうわけさ。おばさんは、一体どこにいるのかね? ちょっとでも会って、わしの言い分を聞いてもらわんことにはね。ええ、この、ジェイ・エィ・ハリソンの、言い分をね」
「もし、ミス・マリラ・カスバートのことでしたら、マリラはあたしの叔母では、ありませんわ。それに、今、遠縁の者が重態なのでイースト・グラフトンに出かけておりますの」アンは、一語一語と威厳をたかめながら言った。「あたしの牛が、お宅のからす麦畑を踏み荒したなんて、本当に申し訳ございません。あれは、あたしの牛で、ミス・カスバートのものではございませんの、マシュウが、三年ほど前、あれがほんの子牛の時、ベルさんから買い取って、あたしにくれたんですの」
「申し訳ないって? 申し訳ないじゃ、すまんぞ。わしのからす麦畑を、どんなにあれが踏み荒したか行って見てくるといい。畑の真ん中から隅まで、踏みにじりおって」
「誠に申し訳ございません」アンは、きっぱりとくりかえした。「でも、もし、そちらの方で、柵をよく修繕しておいて下されば、ドーリーが、踏み込むことはなかったと思いますわ。お宅のからす麦畑と、うちの牧場を区切っているのは、お宅の柵なんですもの。先日お見受けしたところ、あの柵はあまり上等とは言えないようでしたわ」
「うちの柵はちゃんとしてますぞ」とハリソン氏は、逆にやりこめられたことに、ますます腹を立てて、かみつくように言った。「監獄のへいだって、あんなひどい牛を防ぎようはないね。この赤毛の娘っ子め、わしに言わせればあの牛がほんとにあんたのものなら、坐り込んで黄表紙の小説本に読みふけっているより、よそさまの穀物畑に、あいつが踏み込まんように、見張ってる方がいいんじゃないのかね」と言いながら彼はアンの足元に落ちている、罪のない黄褐色のウェルギリウスの詩集に容赦のない視線を浴びせた。
 そう言われてアンは髪の毛のみか、その付け根まで頬を染めた。赤毛はこれまでもずっとアンの悩みの種であった。
「赤毛でもなんでも、耳の周りにほんのちょっぴり毛が生えているだけよりよっぽどましだわ」とアンは言い放った。
 矢は的中した。実のところ、ハリソン氏の方も、自分の禿げ上がった頭のことをひどく気にしていたからだった。ハリソン氏は、憤怒のあまり再び言葉につまって、何も言えずにひたすらアンをにらみつけた。アンのほうは、気分も落ち着き、話を有利な方向に運び始めた。
「お気持は分りますわ、ハリソンさん、あたしには想像力がありますもの。お宅のからす麦の畑に牛が入り込んでいるのが分ったら、どんなにおいやかすぐ見当がつきますわ。ですからなんとおっしゃろうと、別に恨みがましい気持なんかもっていませんわ。今後、二度とドーリーをお宅の麦畑に入り込まさないとお約束いたします。そのことだけは名誉にかけて誓いますわ」
「じゃあ、まあ、気をつけるんだな」ハリソン氏は幾分柔らいだ口調でつぶやいたが、去って行くときの荒々しい足取りから、まだ怒っていることは明らかだった。そしてアンに聞こえるあいだ中、ぶつぶつ一人言を言っているのが分った。

……「第一章 いきりたった隣人」巻頭より


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