「マリー・アントワネット」

(上・下)

シュテファン・ツヴァイク/関楠生訳

(上)ドットブック 530KB/テキストファイル 242KB

(下)ドットブック 525KB/テキストファイル 217KB

各600円

 

神聖ローマ帝国皇帝妃マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットは、15歳でフランス王ルイ16世に嫁ぐ。彼女はヴェルサイユの薔薇と咲き誇り、王国に君臨する。宮中には陰謀が渦巻き、数々のスキャンダルに巻き込まれるが、真実の恋人フェルセン伯が登場していっときの安らぎを得る。だが足下には革命の激流が迫っていた!(上巻)。革命の火は燃えさかり、バスチーユ牢獄攻撃で一気に頂点に。マリー・アントワネットは人気を失い、旧体制の象徴とされて非難攻撃を受け、ついには独房に幽閉され、最後にはギロチンにかけられて露と消える。(下巻)……歴史の残酷さを確かな筆致で描いた、ツヴァイクの代表作!

シュテファン・ツヴァイク(1881〜1942)ウィーン生まれのユダヤ系作家。詩、小説、戯曲、翻訳など多方面にわたる著述をおこなったが、後年は評伝、伝記小説に力を注いだ。代表作に「ジョゼフ・フーシェ」「マリー・アントワネット」 「メアリー・スチュアート」「マゼラン」「3人の巨匠(バルザック・ディケンズ・ドストエフスキー)」など。

立ち読みフロア
子供が嫁にやられる

 ハプスブルク家とブルボン家は何世紀にもわたって、ヨーロッパの主導権をめぐる戦いを、ドイツ、イタリア、フランドルの数多くの戦場で戦ってきたが、ついに両者とも疲れはててしまった。最後のときになって、この昔からの宿敵同士は、おたがいの倦(う)むことなき嫉視反目(しっしはんもく)が他の王家に道を開いてやる結果にしかならなかったことをさとった。すでにイギリスの島からは異端の民が世界の主権を握ろうと手をのばし、すでにプロテスタントのマルク・ブランデンブルク〔プロイセンのこと〕は強大な王国に成長し、すでに半異教のロシアはその勢力圏を無際限に拡大しようと準備している。何度も宿命的な戦争ごっこを繰り返して不信の成りあがり者どもに漁夫の利を得させるよりは、おたがいに平和を保った方がいいのではないだろうか、と、双方の支配者と外交官たちは――例によっておそまきではあるが――自問しはじめた。ルイ十五世の宮廷ではショワズル〔当時、外相兼陸相〕が、マリア・テレジアの顧問としてカウニッツ〔当時、首相〕が、同盟を練りあげた。そして、それが長つづきするように、単に二つの戦争のあいだの息ぬきにとどまらないように、ハプスブルクとブルボン両王家を血縁関係で結ぼうと提案した。
 ハプスブルク家は、いつの時代にも結婚可能の王女にことかかない。このときにも、あらゆる年かっこうの候補者が目白押しにひかえていた。大臣たちはまず第一に、孫があって、いかがわしいというもおろかな素行の主(ぬし)ではあるが、ルイ十五世に、ハプスブルク家の皇女をだれかめあわせることを考えてみた。しかし、「キリスト教の信仰最も篤(あつ)き国王」〔フランス王の尊称〕は、ポンパドゥール夫人のベッドにいたかと思えば、またさっともう一人の愛妾デュバリ夫人の床に逃げこむありさまだし、二度目の妃を失ったヨーゼフ皇帝も、ルイ十五世の娘である三人の老嬢のだれかと仲を取り持ってもらう気はいっこうに見せない――そうなれば最も自然なのは第三の結びつき、つまり、ルイ十五世の孫で、ゆくゆくはフランスの王冠をいただくこととなる若年の王太子を、マリア・テレジアの娘と婚約させる、ということになる。
 一七六六年、当時十一歳のマリー・アントワネットは、すでに本式に推薦されていたものと見なしてよい。五月二十四日に、オーストリア大使は女帝にあててはっきりこう書いているのである。
「フランス国王のおっしゃりかたを聞けば、女帝陛下はこのたびの議を確実な、決定的なものとみなされてもよろしいようでございます」
 しかし外交官たるものは、簡単なことをめんどうにし、とりわけ、重要な問題ならば、かならずたくみに引きのばすのをじまんにしないようならば、外交官とはいえないであろう。宮廷から宮廷への陰謀があいだにはさまり、一年、二年、三年とたてば、むりもないことだがマリア・テレジアは疑い深くなって、彼女がひどく腹を立てて「怪物(ル・モンストル)」と呼ぶ、いやな隣人プロイセンのフリードリヒが、オーストリアの権威確立に決定的な力を持つこの計画にまでもおしまいにはマキャヴェリ的な奸計をめぐらして介入してくるのではないか、とおそれた。それで彼女は、フランスの宮廷をこの半分できあがった約束からはなすまいとして、愛嬌と情熱と手管(てくだ)のかぎりを尽した。結婚仲介業者のようにねばり強く、外交的手腕に強靭で不屈の根気を発揮しながら、彼女は繰返し繰返し、皇女の美点をパリへ報告させた。外交官たちにはおせじと贈物を雨と浴びせて、彼らがついにはヴェルサイユから責任ある結婚申込みを持ち帰るよう取りはからった。
 母というよりは女帝であり、子供の幸福よりは「王家の権力」増大を念ずる彼女は、使臣が警告の報告をよこしてもたじろがない。自然は王太子にいっさいの贈物をこばんだ、つまり王太子は知力劣等で、ひどくぶかっこう、それにまったく鈍感である、という報告があったのだ。しかし、オーストリア皇女は、王妃にさえなれば、なんで幸福にまでなる必要があろう? マリア・テレジアが取りきめと手紙を一所懸命にせっつけばせっつくほど、世渡り上手のルイ十五世は優位に立ってしりごみしてみせる。三年間、彼はおさない皇女の肖像や報告書を送らせておいて、原則的には乗り気であることを言明する。しかし、決定的な求婚の言葉は口に出さず、わが身を束縛するようなことはしないのだ。
 こういう重大な国事の担保となりながら何も知らないトワネットは、そのあいだに十一歳、十二歳、十三歳ときゃしゃに、優美に、すらりと、疑いもなく美しく育ちながら、兄弟姉妹やお友だちとシェーンブルン宮の部屋や庭で元気に遊びたわむれていた。勉強や本や教養にはあまり身をいれなかった。彼女は教育掛の家庭教師や神父たちを、持ちまえの愛らしさとせかせか動きまわる活発さとでたくみにまるめこむすべを心得ていて、そのために勉強時間を全部逃げてしまうことができるのだった。
 山積する国事にかまけて子供たちのことに一々気をくばることができなかったマリア・テレジアは、ある日、未来のフランス王妃が十三歳にもなりながらドイツ語もフランス語も正しく書くことができず、歴史と一般教養に関してはほんの表面的な知識さえ身につけていないことに気づいて、愕然とした。音楽の腕前も、ほかならぬグルックにピアノ教授を受けていたというのに、これまた似たようなものだった。もうぎりぎりのときである。今こそ、おくれをとりもどし、遊びほうけたなまけもののトワネットを教養ある淑女に育てなければならない。未来のフランス王妃たるべき者にとっては、作法通りにダンスをし、りっぱなアクセントでフランス語を話すことがとりわけたいせつである。
 この目的のために、マリア・テレジアは大急ぎでダンスの名人ノヴェールに頼み、ウィーンで客演中のフランスのある劇団に属する二人の俳優を、一人は発音の、もう一人は歌の先生としてやとった。しかしフランス大使がこのことをブルボン家の宮廷に報告するやいなや、たちまちヴェルサイユからは怒りをこめた警告が発せられた。未来のフランス王妃ともあろう者が役者ふぜいに教えを受けるなどとはもってのほか、というのである。それでとりいそぎ、新たな外交交渉が開始された。というのは、ヴェルサイユは王太子妃に推されたひとの教育をすでに自分の方の問題と見なしたからである。
 長いやりとりの末、オルレアンの司教の推挙で、ヴェルモン神父が教育掛としてウィーンに派遣された。十三歳のオーストリア皇女に関する最初の信頼できる報告はこの人の手になるものである。彼は皇女を魅力的で感じがいいと思う。
「皇女は愛らしい容貌と、考えられるかぎり優美な挙措を兼ねそなえておられ、期待されるようもう少し成長されれば、高貴な皇女として望むことのできるすべての魅力をそなえられるに至りましょう。性格と心情は申しぶんありません」
 しかし正直な神父は、教え子の持つ実際の知識と好学心については、ずっと控えめな意見を述べている。小さなマリー・アントワネットヘ、遊びほうけ、注意散漫、気まま勝手で、気の変りやすい陽気な性格だったから、呑みこみはたいへん早いのに、なにかまじめな問題となると、さっぱりやろうという気を見せないのである。
「皇女はこれまで長いあいだ考えられていたよりは理解力をお持ちですが、残念ながらこの理解力は十二歳になられるまで、集中することに慣らされなかったのです。少々怠惰な反面たいへん軽佻(けいちょう)でいられるので、授業はさらに困難なものとなりました。私は六週間、文学の概論をはじめてみました。皇女はよく理解され、正しい判断をされるのですが、もっと深く対象を突っこむようには私には持ってゆけませんでした。その能力をお持ちだとは感じられるのですけれど。それでとうとう、皇女を教育するのは、同時におもしろがらせながらでなければできないということをさとったようなわけです」

……第一章冒頭より


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